<南風>記憶の場をつくる


社会
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 ヘリが大学に落ちた。その一報を聞いて頭に浮かんだのは、旧盆で親戚が集まる仏間の光景だった。

 毎年のように父が話すのは、嘉手納基地を離陸しようとした空中給油機が、フェンスを越えて走行中の車に衝突し、民間人1人と米兵10人が犠牲になった1966年5月の事故のことだ。

 その民間人は父方の親戚だった。だから、米軍機は落ちるものだと子どもの頃から私は思ってきた。

 2004年8月13日。沖縄国際大学に米軍ヘリCH―53が墜落し炎上した。奇跡的に民間人の犠牲者はいなかった。

 しかし、ヘリのプロペラが爪痕を残した1号館の黒壁の周りにはストロンチウム90が飛散したはずだ。後に同大学で開催された講演会で、当時京都大学原子炉実験所の小出裕章助教がメイン・ロータの安全装置に使われていた放射性物質について報告してくれた。

 墜落後、普天間基地のフェンスを乗り越えて、海兵隊員が現場に駆け付け一帯を封鎖。県警も学長も市長も、地位協定の壁に阻まれ、現場を確認できず、米軍は証拠となるはずの現場の土を剥ぎ取り、焼け焦げた機体も基地内に持ち去った。

 あれから14年。今なお沖縄の空は危険に満ちている。今朝も校舎の上を米軍機が低く飛んでいった。

 1号館の黒焦げの壁を保存し資料館として残してほしいとの願いは叶わなかった。しかし、あの日のことを忘れないために、毎年8月、現場を目撃し記録した人たちの写真や声を集めた写真展を開催してきた。沖国大近くに住む兼城淳子さんは大きく引き伸ばしキャプションをつけた写真を毎年提供してくれる。

 8月10日~12日、正午から午後7時まで、那覇市てんぶす館で「壁1000の記憶」を開催する。黒焦げの壁は、いま私たちに何を語り掛けるのか。
(新川美千代、切り紙作家)