<南風>言葉の使い方


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 2013年の夏、文芸誌「新潮」に、初めての小説が掲載された。わたしはちょうど沖縄本島にいたので、いくつかの本屋を回り、「新潮」を見つけたときには、自分の書いたものが沖縄でも売られていることに、ひそかに興奮した。そのあと、わたしが発表した戯曲はすべて「新潮」に掲載され、エッセイなどを書くこともあり、「新潮」とその編集部にはずっとお世話になっている。

 だから、今回の一連の「新潮45」の事件には残念な思いと、そして失望を感じた。もちろん、新潮社全体がこれに加担したわけではないし、新潮編集部がこれまでわたしの書いたものにしてくれたことが変わるわけではないが、これは自分にとって他人事ではない。

 他人事でないと言えば、先日の沖縄県知事選のあと、「沖縄終わった」というような発言が(おそらく主に)内地から発せられたことについても、内地で育った人間として、非常に情けなく恥ずかしい。誰もそんな神のような立場で、誰かどこかを乏しめることなどできるはずがない。

 「言葉」は、他人と他人をつなぐコミュニケーションのために人類が発明した偉大な道具だ。けれども昨今それが、他人の尊厳を傷つけるために振りかざされることが多くなっている気がする。それは最近始まったことではないかもしれないが、料理のための包丁で人を刺してしまうような、そんなふうに言葉が使われてしまうことに、そして、文学界という言葉のプロであるべき人たちが率先するようにそれをしてしまっていることに、その末端にいる人間として、申し訳なく思う。

 言葉によって傷つけられてしまった人たち、そして言葉自体に対して、ごめんなさい。自分のこととして猛省し、そういう暴力をなくすために戦っていきたいと思います。
(神里雄大、作家・舞台演出家)