<南風>琉球の先人の主体性


社会
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 愛用している沖縄の手帳の11月20日の欄に、「脱清人林世功(名城里之子親雲上)琉球分割案に抗議し北京で自決(1880)」とある。林世功は尚典(尚泰の長男)の教師も務めた琉球を代表する知識人。1876年、琉球国存続を求める行動のため、王府から清国へ派遣された。明治政府の武力による琉球併合(1879年)の後も、琉球や東京の同志たちと連動し、国際社会に琉球国の復活を訴え続けていた。

 1880年10月21日、日清両国が琉球分割条約(宮古・八重山を清国領とし、日本は経済利益を得る)に合意したことに対し、命を懸けて琉球全体としての復興を訴えたのだ(旧暦10月18日)。林世功らの行動は、清国の李鴻章らに衝撃を与え、条約調印は回避された。琉球救国運動が、日清両国が合意した条約の調印を阻止したのだった。

 明治政府が当時用いていた「脱清」という言葉は最近使われなくなっている。研究が進み、琉球救国運動に対する積極的評価が広がってきたからだという。

 「琉球救国運動―抗日の思想と行動」(出版舎Mugen)の著者・後田多敦さん(神奈川大学准教授)を講師に招いて同テーマの講座を開いた際には、多くの方が参加くださり、関心の高さを実感した。

 講座では、林世功らと共に清国に渡った琉球救国運動のリーダー、幸地朝常の「日本官吏空勢を張り凶兵銃器を振て改革を迫るといえども、恐るべからず屈すべからず」「生きて日本国の属人となるを願はず、死して日本国の属鬼となるを願はず」という強い抵抗の言葉や生涯も紹介された。

 先人たちの琉球の主体性を大切にした行動。私には、就任間もない玉城デニー知事の訪米や、知事を支持する世界のウチナーンチュの声明・署名行動にも重なって見えてくる。
(照屋みどり、しまんちゅスクール代表)