<南風>惰性と闘う日常


社会
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 また自分の戯曲がリーディング上演されるという機会に恵まれて、中旬にニューヨークへ行った。なので、またまた髪を切った。行く先々で切っていたら髪はどんどん短くなってしまって、11月のニューヨークはもう0度に達しようという気温で、寒くて仕方がなかった。それはともかく。

 毎月のようにどこかに行くという生活ができているのはありがたいことだが、そのありがたさにだんだん鈍感になってきている。

 朝まで飲んで、帰って荷造りを適当にして、空港にはギリギリに着いて、準備も何もない。気温差の想像もほどほどに、とりあえず詰めた衣類。洗浄液はあるのに、コンタクトレンズは忘れるというありさま。

 街歩きをしてみても、どうにも新鮮さを感じない。今回はほかにも日本から呼ばれた劇作家たちがいて「地球の歩き方」で街を調べてどうこうしようとしている彼らの後を、付いて行かせてもらうだけだった。

 ニューヨークのすばらしい俳優に自分の戯曲を読んでもらったのに、それを前ほど興奮せず冷静に見ている自分に気もとめず、当たり前のように帰国して、また日常に戻った。

 考えてみるとこれって、いつも起きている。ドキュメンタリー番組を見て食べられることのありがたさに涙しても、翌日にはもうご飯を残し、親のありがたみを知った数日後には文句を言っている。そしてぼんやりと毎日を過ごす。日常が惰性と化し、惰性が思考を奪い、想像力を奪っていく。日常に負けている。

 移動が日常になって、まさしく惰性で動いてしまっているいま、このままでいいのかと思いながら、焦っても仕方がないし、そうは言っても少しずつよくしていくしかないのだ、という大人っぽい「冷静な」考えで、時折自省するくらいしか、それをごまかす手段を見つけられないでいる。
(神里雄大、作家・舞台演出家)