<南風>おもしろそうさ~その2


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「1291年、モンゴル帝国が琉球に攻めてきた」。その一文に僕は驚かされた。日本史の授業で元寇という1274年文永の役、1281年弘安の役と二度に渡って元の大軍が北九州に攻めてきたことは知っていた。しかし、この沖縄にも蒙古襲来の伝説が存在したとは…。しかも、侵略されることなく、撃退したという。

 琉球は三山時代。中山王の英祖はどうやって元軍を追い返したのか。元は東アジアから中央アジアまで支配した中国史上最大の帝国。一方、当時の琉球は大変貧しく、武器どころか鉄すらないありさま。勝てるわけがない。ひょっとして、琉球にもあの諸葛孔明のような天才軍師がいて、策略をもって元の大軍を打ち負かしたのか。それともハブやオニヒトデを投げつけた?那覇マラソンのように人の鎖で侵入を防いだ? 空手? 台風? オトーリ? いや、違う。小国琉球でもモンゴル大帝国の軍勢を追い返せる方法は他にないか? そうだ。武器を必要としない攻撃がこの島にはあった。

 それは…カメーカメー攻撃。これなら追い返せるかもしれない。元の武力侵攻の情報を得た英祖は、琉球全土からオバーを招集。上陸してきた元軍に貧しい中かき集めてきたクヮッチーを「ありかめーうりかめー」と振る舞い、おなかいっぱいで苦しくなった元の総大将は「オバー、僕なんかまわるところあるから、帰ろうね」とついには兵を退かせたのであった。

 元の「留求」侵攻の記録に対し、実際は台湾説やデマ説など諸説あるようだが、僕は想像してしまう。海岸一帯に砦(とりで)ではなく、シンメーナービを並べて炊き出しの陣を布(し)くオバーたちの姿を。

 こういった琉球史への妄想が、後に尚巴志と南山王他魯毎の舌戦を描いた舞台「嘉手志演義」とつながっていく。僕は琉球史劇で舞台脚本家デビューを果たすのであった。
(上原圭太、漫才コンビ・プロパン7)