<南風>八重山からの衛星中継


社会
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 阪神淡路に東日本の大震災。近年では熊本、大阪北部、北海道胆振東部と、平成は地震災害が多発しました。

 西表島周辺で群発地震が始まったのは1991年。大きな被害はありませんでしたが、瞬間的ともいえる揺れが頻発し、不安が高まりました。そこで八重山からテレビ中継の企画が持ち上がりました。

 先島からのテレビ回線がない時代です。宮古島はトライアスロンのBS中継を経験していましたが、八重山からは初めてだったと記憶します。車体後部に直径4メートルのパラボラアンテナを組み立てる大型BS中継車が必要で、技術陣も大変でした。

 BSの難点は中継車から発信した電波がそのまま放送になるため、東京にいる編集責任者がチェックできないこと、ぶっつけ本番です。

 3月下旬、私は2日目に西表島祖納から地震レポートを、1日目と3日目は石嶺アナウンサーが石垣島の海開きと浦内川の豊かな自然の話題を放送しました。

 地震の記憶をもうひとつ。1998年5月4日の朝、石垣と宮古で震度3を観測し、津波注意報が発表されました。この時は、既に先島からの回線が整備され、映像送りが可能になっていました。

 石垣と宮古の報道室からの映像をニュースで見た東京の同期入局の技術職員から、副部長だった私に電話がかかってきました。

 「全国一斉にビデオカメラの更新を計画しているが、宮古と石垣が入っていない」。調べてみると先島のカメラは、帳簿上は「廃棄」されたものでした。カメラが高価だった頃、先島への配備計画がなく、沖縄局の知恵でリサイクルしていたのです。技術職員の機転に救われましたが、東京はいつも杓子(しゃくし)定規で地方の実情を把握していないと痛感しました。

(繁竹治顕、九州国立博物館振興財団専務理事)