<南風>料理と器


社会
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 「このお皿でギョウザ食べる」。そう言って6歳の息子が陶器市で小さな豆皿を買って帰ってきた。自分で選んだお皿に少しのしょうゆを垂らし、ギョウザをとってはつけ口に運んでいく。たらふく食べた後「はぁおいしかった」と満足そうに大の字に寝転んだ。

 陶芸家の家族が陶器市に行くのかという声が聞こえてきそうだが…。息子はお皿を手に取りこれで何を食べようかあれこれ悩みながら選んだそうだ。彼なりに頭の中で想像し、「これでギョウザを食べたら最高」の一枚に出会えたらしい。

 普段、私は逆の立場で器を売る側であるのだが、自分の器を選ぶお客さんの姿を眺めるのが好きだ。一つ一つ手に取っては、重さを感じ、触れた質感を感じ、これと決めたものに出会えるとその人のもとへ旅立っていく。特に料理人の人が器を選ぶ姿はたまらない。まるでそこに料理したものがあるかのような手さばきで器に触れ、対話しているようだ。

 私は器には料理をのせ、花器には花を生け、ひとつの作品として最終のかたちになると考えている。自分では料理ができないので、器に料理がのったかたちを見るためには、料理人の人に実際に料理をのせ使ってもらったほうがいい。最近は自ら器を料理屋さんに持っていき使ってもらい話をきくことをしている。

 お皿にそのまま料理をのせることだけを想像し持っていくと、さらにもう一枚お皿を重ねて盛り付けられたり、裏返しにして料理をのせられたり、料理をのせるには使いづらそうな表面のものをチョイスされたりと、作り手の想像を超える器の使い方を知ることができ面白い。

 料理をのせたあとの洗いやすさ、仕舞いやすさへの配慮もするが、そればかりではつまらない。料理も器も楽しんでもらえる一枚を作りたい。
(山本憲卓、陶芸家)