<南風>意図しない良さ


社会
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 芸術大学出身者の友人の工房を訪ねたり、個展を開けば、私も足を運び作品を見に行く。そこで私は作品を手に取り「いやらしいわ~」(私は三重の訛りも入っている)とよく口にしている。

 友人も私の工房を訪れ、作品を見れば「うわーやらしい」の一言。それは私たちにとってほめ言葉でもあり、そのなかにはどうしたらこんな風にできるのかという嫉妬のような思いも含まれている。

 かわいい、かっこいいといった見た目だけの評価ではなく、どのような技法で、工程を踏んででき上がったのかに対する評価に近い気がする。何かを作ろうとしたとき、友人たちも私も面白いものを作ってやろうと土や技法を変えてみる。

 それが、いい意味で裏切られたときに「いやらしい」ものができ上がるのだ。しかし、狙いすぎてその意図が相手に透けて見えると一気にダサくなってしまったりもするから加減が難しい。

 また、自分が狙っていなかったところを評価されるとそれはそれで新しい発見ができて面白い。先日、薪(まき)窯に入れた平皿だが、土や釉薬(ゆうやく)、技法を凝らして手をかけた表面よりも意図せず自然に出た裏面の質感の方がいいと言われたことがあった。

 もうこの際、今度は表と裏を逆にして焼いてみようかと頭によぎったが、その時点で狙いすぎていてきっといいものはできないだろうとやめることにした。狙って作ってもそれ通りに焼き上がらないこともある、狙っていなくてもちょっとした温度の加減でいい感じに仕上がることもある。

 すべてが狙い通りにいく技術は私にはまだない。意図せず狙っていなかったところの方が美しかったり面白かったり、そのときどきに見せる土や火の表情に私はいつも踊らされている。
(山本憲卓、陶芸家)