<南風>久松五勇士


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 先日、社員が宮古出張帰りに「久松五勇士」という土産を買ってきた。教科書にも載ったという宮古島の英雄にちなんだ菓子である。銘菓の黒糖風味を味わいつつ、沖縄の電気通信史では欠かすことのできないエピソードと聞き、その歴史の一端をつづってみたくなった。

 1896(明治29)年から約1年にわたり、奄美大島、沖縄本島、石垣島、台湾を海底電信線でつなぐ敷設工事が行われた。これが沖縄における電気通信史の始まりである。それまではというと、東京に電報を打つにしても鹿児島まで船便で運び、鹿児島の電信局で打電するという船便頼みの世界であった。

 この海底電信線を陸揚げし、電気通信を利用できるようにした施設を電信所と呼んでいたが、開所当初はそのそばを通ると「長命しない」と恐れられ、避けて通る人々が多かったらしい。その後、為替貯金が開始され出稼ぎからの送金を受け取る人々が増えだすと、たちまち窓口の通信士は福をもたらす神のように尊敬され、遠くから弁当をもって見物に来るとの記録もあったようだ。

 海底電信線により飛躍的に沖縄の電気通信事情が進展するのだが、当時宮古島には海底電信線が敷設されず、従って電信所もなかった。そこで、冒頭述べた久松五勇士の逸話につながる。日露戦争中の1905年、ロシアのバルチック艦隊が宮古島近海を北上するのを発見し、島を代表する屈強な若者5人が、電信所のある石垣島へ170キロメートルの距離を15時間かけてサバニで渡り、「敵艦見ゆ」と東京の大本営へ打電した。

 翻って現在は、先島諸島を結ぶ海底光ケーブルが完成し、沖縄の多くの島々で光サービスを通じて世界との快適な通信が可能となった。久松五勇士の命を懸けた偉業に改めて驚がくするとともに、電気通信の重要性を実感した次第である。
(畔上修一、NTT西日本沖縄支店長)