<南風>愛し合える距離感


社会
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 数年前に開催した夫の書展で、妙に目にとまった作品があり、今回はそれをタイトルにしてみた。

 人と人との間にはほどよい距離というものがある。近くにいても平気な人と、なるべく遠ざけたい人。どんな人とでもある一定の距離をおく人もいるし、大丈夫かと思うほど誰にでも至近距離の人もいる。わが家には、ゆきという白い雄猫がいる。人にくっつきたがりで初対面でもおなかを見せ、そのかまってちゃんぶりは犬のよう。動物にも距離感があるようだ。

 タイトルの言葉に戻ろう。私は人が愛し合うとは、物理的にも精神的にも近くて、理解し合って、融合するものだと信じていた。でも、こんな経験があった。

 私はクリスチャンで、大学を休学し、宣教師として伝道活動をしていた時期がある。宣教師は基本的に二人一組で、トイレと風呂以外はいつも一緒でなければいけない。ある日、新しい同僚と組むことになり、一軒家のアパートに引っ越した。でもそこは、すでに他の宣教師で満室。私たちはしばらくリビングで寝ることになった。同僚はひどく動揺し、部屋のほこりがひどいと言って文句を言い始めた。伝道一筋だった私は、そんなことはどうでもよかったので、彼女を無視した。

 彼女の心の嘆きに無関心だった私は、当然彼女から嫌われ、心を通わせることもなかった。キリストは隣人を愛せよと教えたのに、このありさま。そして、彼女とは4カ月過ごして後、互いに別々の同僚が決まった。そのときの彼女のうれしそうな笑顔は苦い思い出だ。でもおかしなことに、離れて間もなく彼女は私に笑顔であいさつしたり、元気だったかと声をかけるようになった。距離が私たちをを近づけたのだ。

 皆さんの身近な人はどうだろう。近くていいのはコンビニくらいかもしれない。
(糸数未希、NPO法人にじのはしファンド代表理事)