<南風>「島守と私」


社会
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 「島田叡(あきら)?荒井退造(たいぞう)?」。今から約2年前、那覇市繁多川公民館館長・南信乃介氏、舞台プロデューサー・西平博人氏より沖縄戦時の県知事を題材とした舞台脚本を書いてほしいと依頼を受けました。琉球史は好きですが、沖縄戦は詳しくなく、小学生の時、平和学習で聞かされた沖縄戦の凄惨(せいさん)さ。それから沖縄戦は残酷でこわものと認識し、正直敬遠しておりました。

 摩文仁の丘に立つ島守の塔を前に手を合わせても、その慰霊碑は誰の魂を慰めるものなのかも理解せず…。脚本を書くにあたり、さまざまな資料を読み漁りました。沖縄の島守(田村洋三著)、「手記」沖縄戦と島田知事(隈崎俊武著)、沖縄の決戦・県民玉砕の記録(浦崎純著)、沖縄疎開の父荒井退造(塚田保美著)など。そうしていくうちに、私はこの沖縄に暮らしながら、島田叡、荒井退造という人物の存在を知らなかったことを恥ずかしく思いました。鉄の暴風にさらされた沖縄で、命を賭して住民を守ろうとした県庁職員、警察官らがいたことも知らず、自分自身がそういった人たちによってつながれた命であることも。そしてようやく書き上げることができました。

 戦争の影が色濃くなる沖縄の地に降り立った県知事・島田叡と沖縄県警察部長・荒井退造を中心に自らの信条を貫き最後まで県民に寄り添い奔走した県庁職員や警察官らの物語を。戦後、県民は過酷な戦時体制下で一人でも多くの命を救おうとした彼らをたたえ「島守」と呼ぶのでした。

 1945年、山原(やんばる)に幼い兄弟たちと疎開した男の子がいました。両親は食糧を求め南下した際に戦死。男の子は戦争を生き延び、結婚し、娘が生まれました。その娘が私の母で、私は島守と呼ばれる人たちによってつながれた命の一つでありました。舞台「島守のうた~あした天気にしておくれ~」。6月開演。
(上原圭太、漫才コンビ・プロパン7)