<南風>出口調査と県知事選


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 午後8時の投票終了と同時に当確発表。「マスコミの横暴」との声も聞きますが、投票結果は決まっているのですから、どの時点で判断するかの問題です。平成の時代はコンピューターを使った開票速報が急速に進化しました。

 出口調査もその一つです。しかし、初めの頃は試行錯誤がありました。名護市の比嘉鉄也市長が突然辞職して、1998年の年明けに行われた市長選挙では、調査する投票所の選び方が問題でした。市中心部と東海岸の投票所では、有権者数に大差があったからです。おまけに投票当日は調査拒否が半数以上もあり、参考になりませんでした。

 出口調査のない時代は、記者としての感覚を磨くのが選挙取材でした。思い出深いのが、大田昌秀さんが当選した1990年と、落選した1998年の2回の知事選です。

 90年は、現職だった西銘順治さんが磐石と思われていました。ところが、8月に勃発した湾岸戦争で、日本のPKO協力が問題となったことで、形勢が一変しました。選挙期間中、日ごとにうねりのように動いていく選挙情勢を肌で感じる貴重な体験をしました。

 98年は夏に福岡に転勤していましたが、福岡市長選挙と日程が重なったため、福岡局の選挙担当デスクの代理として沖縄局の開票速報に立ち会いました。

 投票前日、街頭運動が終わって大田事務所を訪れた時のことです。奥で親泊康晴那覇市長と宮平洋副知事(いずれも当時)が暗い顔でひそひそ話をしていました。私の顔を見た親泊さんが近寄ってきて、「3千票足らない」と苦々しくつぶやきました。

 稲嶺事務所に回ると、呉屋秀信さんがご機嫌な様子で泡盛の杯を手に琉歌を口ずさんでいました。投票前夜の選挙事務所の明暗が、結果を象徴していました。

(繁竹治顕、九州国立博物館振興財団専務理事)