<南風>生涯野球人


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 「すいませんが…」と、今から約20年前、ある方から父のことをコラムに取り上げていいかと許可を求められ、僕は丁重にお断りした。父が亡くなったばかりの話だった。

 長嶋茂雄に憧れた野球少年が僕の父で、高校時代は首里高校を破り県大会優勝もしたと話していた。高校卒業後は仕事をしながら草野球ざんまい。野球を通してさまざまな人たちと交流をしていた。父の周りには野球好きが集まり、僕は、野球仲間と酒を飲み、野球談義に盛り上がる父が誇らしかった。

 父は、当時少年野球チームの監督もしており、僕も小学2年に入団した。チーム内では、お父さんではなく監督と呼ぶよう厳しい顔で言われたことを今でも覚えている。父は僕に野球を強制したことはないと言っていたが、僕が野球の道に進むよう誘導していたのは確かである。

 あるクリスマスの夜、僕は、恐竜のおもちゃが欲しいと書いた手紙を枕元に置いた。翌朝、ワクワクして目を覚ますと枕元にはミズノという金属のバットが置いてあった…。父は長く少年野球の監督をした後、高校野球の審判をするようになった。鏡を見ながら、セーフやアウトのポーズを毎日練習していた。

 そして沖縄県高校野球春季大会決勝「奥武山球場」でついに主審としてマスクをかぶることになった矢先、突然倒れ意識不明のまま入院。医師からは2~3日もつかと言われた。テレビからは春の高校野球甲子園大会の中継。快進撃を見せる沖縄のチームに病室でも盛り上がる僕ら家族。

 この大会で沖縄尚学が県勢初の日本一を成し遂げた。父もそれを見届けたかったのか…数日後天国に旅立った。生涯野球人の父らしいタイミングであった。しかしあの時、断った父についてのコラム…今回、僕が書くことになるとは…。
(上原圭太、漫才コンビ・プロパン7)