<南風>慰霊の日によせて


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 1945年。当時、15歳だった翁長安子さんは、看護要員として沖縄特設警備隊に所属しました。

 「識名は自然洞窟がいっぱい。湧き水や井戸もあり水も豊富だったのでそれほど苦労しなかった。年が一番若かった私は、水汲(く)みと飯運びが主な仕事でした。繁多川あたりは豆腐を作っていたので、シンメーナービがあった。それで兵隊さんのご飯を作りました。芋、カンダバー、乾燥味噌で、初めはくふぁじゅーしーをつくって、ゆうなの葉に広げて、おにぎりを何百個もつくった。ミージョーキーをふたつ重ねて運びました」

 翁長さんの話からは、戦中、人々がどのように命をつないでいたのかが具体的によくわかります。

 その後、首里に移動し、近くにあった松川ガーを利用しましたが、水が少なく不便だったそうです。「水を汲みに行くのは布のバケツ。防水されていた。金は音がなるからね。水筒を20個くらい入れて運んで、朝の5時くらいから、井戸におりて10回くらい水汲みをしました」

 首里から日本軍が撤退した後は、翁長さんも、命からがら戦地となった首里をひとりでさまよいます。

 「首里の金城町のナーカヌカーでは、死体が二つ浮いていましたが、それをどかして水を飲みました。水を飲んだら、背中の傷に気づきました。昔から『傷があったら水は飲ますな』といわれた意味がよくわかりました。出血がよりひどくなり死ぬんだと思いました」

 戦争体験をひとつひとつ記憶をたどりながら、お話する翁長さんから、二度とそのようなことがあってはならないという強い思いが伝わります。

 沖縄の湧き水にはこのような体験談が多く残っています。機会があればぜひ、身近な体験者の方に聞いてみてください。二度と悲惨な戦争を繰り返してはいけないという思いをこめて。
(ぐしともこ、湧き水fun倶楽部代表)