<南風>ユタとガンチョーと私


社会
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 早稲田大学第一文学部文芸専修…それが僕の最終学歴だ。「でぃきや~だね~」とかよく言われたが、実際は劣等生だったに違いない。学力の差はすさまじく、大学4年間は毎日図書館に籠(こも)っていた。他の人が1日で終わる課題を僕は1週間もかかってしまう。大学生活での思い出と言えば南灯寮と早稲田の図書館…そしてセブン―イレブン。

 大学では全世界の歴史を学び、文章表現、戯曲などに触れた。卒業制作は詩集を書いた。プロの詩人には申し訳ないが、小説や戯曲台本は無理でも詩集なら僕でもなんとかなると考えた。

 実は大学卒業後は就職せず、東京の芸能スクールに入り芸人を目指す予定だった。願書を出して、受講料を支払うのみ。しかし、突然の父の死で、僕は東京進出を諦めた。憔悴(しょうすい)しきっている家族を見捨てられず、留年しないよう4年で卒業し帰沖することを第一とした。東京で芸人を目指すために、世界各国の歴史を学んで生かすつもりが…。僕は沖縄のお笑いを選んだ。

 父の死から一年がたち、わが家はユタを呼んだ。父の言葉を聞くために。大黒柱を失った家族は不安と淋(さび)しさに押しつぶされそうになりながらも、平凡な日々を取り戻そうと過ごしていた。それを見て父はどう思ったのだろうか? 僕の決断は間違ってなかったよね? ちゃんと家族の側(そば)で見守ってくれてたんだよね?

 おもむろにユタが父の言葉を伝えた。「あんたたち、火葬の時、お父さんの眼鏡外した? お父さんが言ってるよ。お父さんはあんたたちの側にいたって。だけど、眼鏡がないから、あんたたちのことちゃんと見えなかったって…」。僕たちは無言で眼鏡をグソーに送る儀式をすませ、一応当たってるから、ユタに謝礼と折り弁当を手渡した。「お父ぉ、今はちゃんと見えてるね? …ハズキルーペの方が良かったかなぁ」
(上原圭太、漫才コンビ・プロパン7)