<南風>時間と距離と。


社会
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 私は大阪で生まれて、広島で育ち、19の春に沖縄に来た。30年前。当時珍しかったユニーク入試をしていた大学のなかから遠いところ、沖縄大学を選んだ。

 そこはすべて西暦表記をする大学で気分がよかった。日の丸を焼いた知花昌一さんの存在もまだそれなりに生々しく、公害、環境問題の宇井純さん、沖縄現代史の新崎盛暉さんがいた。プレハブのサークル棟の前では新良幸人がギターを弾きながら七輪でサンマを焼いていて、サークルの部屋の畳の下から〇〇と書かれたヘルメットがごろごろ出てきた、という話もあった。

 沖縄ブームの前で、よく、なんで沖縄なんかに来たの?と怪訝な顔をされた。大学で、というと納得され、琉大じゃないとわかるともっと訝(いぶか)られた。

 広島から来た、というと、同級生に「わあ、ピッカドーンのところ?」と言われて、あまりに屈託のない笑顔に気が抜けたことがある。あとから聞いたら、鬼ごっこで捕まったら「ピッカドーン!」って言う遊びをしていたという。時間が経ち、距離が離れるというのは、そういうことだなと思う。初対面のおじさんに、広島から来たと言うやいなや、原爆は一瞬だ、それに比べて沖縄の地上戦の方がずっと大変だったと食ってかかられたこともあった。ちゃんと知られていない不満が溜まっていたのだと思う。

 戦後24年で私は生まれた。0歳から過去にぱたんと折り返したら、24歳のときが戦争の終わり。私は地(じ)の人ではなくて気がつかなかっただけで、友だちにはきっと被爆二世がいた。

 今年の慰霊の日は土砂降りの雨で、いつもピーカンのこの日に雨が降ったのは30年ぶりだという。怒っているような降りようだった。最近の私は原爆の日の黙祷(もくとう)を逃すことがあっても慰霊の日の黙祷は欠かさない。時間と距離はそういうことをする。
(上田真弓 俳優、演出家)