<南風>「現地妻」を拒絶した女


社会
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 ミドゥムヌヌ アザユ クイルッカ ピルマシクトゥ ミルン(女が石垣を越えると大変なことになる)。

 黒島に伝わる「賄(まかない)女(おんな)」にまつわる言い伝えです。琉球王国時代、離島勤務の役人には家族の同行が許されず、そのため身の回りの世話をする人が宛てがわれました。王府の定めでは、51歳以上の男女または14歳以下の男子に限られたのです。

 人頭税の課税対象者以外からの選任ですが、14歳以下の女子も用心深く除かれていました。でも実際は若い女子が選ばれたので「賄女」と呼ばれたのです。そのうえ禁止されていた役人との寝起きを強要されたのです。何のことはない、賄女の実態は役人の任期中だけの「現地妻」だったわけです。

 そういう情況下の黒島で、賄女に指名されたフナットゥ・ブンタ女はこれをきっぱりと拒絶。役人の家に無理やり連れて行かれた彼女は、裏の「石垣を越え」逃げ出したのです。再び役人宅に連れ戻された彼女は、ひどい折檻(せっかん)を受けた挙句惨殺されました。この逸話で、彼女の「石垣を越える行為は禍(わざわい)のもと」と否定的に捉えられています。

 しかし、役人の命令に背くことの難しかった時代背景のなかで、文字通り命懸けで振る舞った彼女の姿勢は、人間の尊厳を守る普遍的な正義の証として称賛れ、見直されるべきではないでしょうか。

 ところで「八重山研究の父」と尊称されている喜舎場永〓は、離島の女にとって賄女になることは「名誉中の名誉・理想中の理想・羨望(せんぼう)の的」などと、自著のなかで繰り返し声高に説いています。実相は王府の法令等に照らしても真逆です。

 喜舎場の見解は、離島住民の生活感覚への想像力の欠如、さもなければ離島住民への偏見や差別に根ざした幻想にすぎない、と私は考えます。拙著『八重山の芸能探訪』所収「賄女に関する一考察」参照。
(當山善堂、八重山伝統歌謡研究家)

※注:〓は王ヘンに「旬」