<南風>奥尻の恩を福島で返す


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 7月12日、200人以上が亡くなった北海道南西沖地震から26年が経った。昨年8月、当時20歳だった浅利勇二さん(46)に奥尻島を案内してもらい、震災当時の話を聞いた。

 1993年(平成5年)7月12日午後10時17分、マグニチュード7・8の地震が発生。この世の終わりかと思った。浅利さんは、父と義理の兄を津波で亡くした。父は今も見つかっていない。津波は地震発生から7分という短い時間で島を襲った。時速500キロの速さで。

 避難所の生活は苦しかった。プライバシーも無かった。ようやく仮設住宅へ移った。薄い壁はストレスを高めた。浅利さんは奥尻島復興のために、コンクリートミキサー車の運転手になった。故郷は、世界の支援を受けて蘇(よみがえ)った。その後結婚して函館に移った。

 2011年3月11日「東日本・津波・原発事故大震災」が発生。浅利さんは10日後、トラックに畳と支援物資を積んで、宮城県沿岸部を回った。その時初めて、福島県でも津波の被害が大きかった事実を知った。北海道では、原発事故しか伝えられていなかった。

 浅利さんは、東北の震災から2年後の13年4月、函館の会社を辞めた。「地震・津波・原発事故で苦しんでいる福島県の復興の力になりたい」と。妻の陽子さんは「私は行かない」と即答した。原発事故による放射能が気になったからだ。

 浅利さんが福島に行く3日前、陽子さんは、函館の介護老人ホームを退職。5月3日、2人は軽自動車で福島県いわき市を目指した。浅利さんは今、トラックドライバーとして福島復興のためにハンドルを握っている。浅利さんが言った。「3年前に亡くなった母の口癖は、『地震が起きたら、逃げるが勝ち』。それを全国の人に知ってほしい。奥尻の教訓として」。2人の復興支援は7年目に入った。
(大和田新、フリーアナウンサー)