<南風>いつの日か


社会
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 私事で恐縮だが、顧問を務める本校文芸部が「短歌甲子園2019」で全国準優勝を果たした。破竹の勢いで勝ち進み、気づけば後一勝で全国制覇まできていた。決勝こそ惜敗したが、その戦いぶりは優勝校と比べても全く遜色なかった。

 短歌が門外漢の私にできるアドバイスは一つだけ。

「歌は『私』を離れては生まれない。『暮らし』に寄り添う歌を作ってごらん」

 彼女たちは言いつけを守った。身の回りの知覚、体験を繊細な感性によって美しい調べに結晶させる。歌が一つ詠まれる度に会場が揺れた。厳かな沈黙が人々を包む。祈りにも似た歌は、審査員はもちろん観客の心を捉えたと感じた。

 胸が熱くなった。感動した。しかし、居心地の悪さがなぜか拭えない。それが「若者への申し訳なさ」だと気づいたのは帰りのフライト中だった。

 本土の若者が作る歌には、我が街の不安、憤り、悲しみがない。あるのはただ“わがまま”で“ぜいたく”な青春の謳歌(おうか)だった。切ない恋心、青春の葛藤、家族や友への感謝…。

 思わず考え込む。なぜ沖縄の若者だけが今も憤り、悲しみを伝える義務を負うのか。いつまで基地、戦争に拘(こだわ)ればいいのだろうか。

 もちろん昔を忘れてはならない。歴史を蔑(ないがし)ろにしてはいけない。しかし、なお続く沖縄の「今」を巡る戦いは、本来大人が向き合い、乗り越えるべきもの。子どもや若者に代弁させることに、私たち大人はどこかで悔恨の情を持たねばならない。沖縄の現状を三十一音に託した彼女らへ「ありがとう」の言葉とともに「ごめん」と謝る必要はないのか。

 いつの日か沖縄の若者も自らのことだけを“わがままに”詠める日が来ることを願わずにはいられない。貴重な青春を搾取してはならない。敢(あ)えて厳しい言葉でつづったことをご容赦願いたい。
(砂川亨、昭和薬科大学附属中・高校教諭)