<南風>生きることは学ぶこと


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 知命を過ぎたころから、縁あって人前で講演する機会を頂くようになった。他校の保護者や教職員の勉強会、PTA役員の研修会、市民講座。職業柄生徒と相対することには慣れているが、大人を前に語れることは多くない。「普段の授業再現でよければ」という条件で引き受けるが、毎回心痩せる思いで臨む。終演後は缶コーヒー片手に独り幸せな気分に浸ってしまう。

 それは講演を無難にこなしたからでも、上手に伝えられたからでもない。私の拙い話に目を輝かせ、身を乗り出して受講する大人に出会えたからだ。わからぬときには首を傾げ、得心した瞬間には大きく頷く。凛とした姿勢が目に焼き付く。私まで力がみなぎる。

 事前にお願いしておいたアンケートを読むのも楽しい。ただ楽しいだけではない。私自身の新たな学びにもなる。浦添市主催の市民講座後のアンケートを頂いた際には、講演に対する鋭い疑問や厳しい助言があった。私も感じていた舌足らずで至らぬ箇所を見事に指摘された。自身のふがいなさに落ち込むと同時に、学びを通した真剣勝負に感謝の気持ちが湧く。襟を正して何度も読み返した。「生きることは学ぶこと」。むのたけじ氏(ジャーナリスト)の言葉が心に染みるのはこんなときだ。年齢は関係ない。利害も立場も存在しない。あるのはただ「学び」への純粋な情熱だけだ。

 文章の冒頭で“知命”と書いた。これは孔子の言葉で50歳を表す。孔子は齢50歳のとき、天が己に与えた使命を知ったのだそうだ。私も、これまで教師として培ってきたささやかな経験と知恵を、学びを求める人に手渡してゆく。孔子ほど大きくはないが、これが私なりの知命だ。

 「なりたかった自分になるのに、遅すぎるということはない」。ジョージ・エリオットの言葉をしっかりと胸に刻んで歩みたい。
(砂川亨、昭和薬科大学附属中・高校教諭)