コラム「南風」 コザを創造した先人たち


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 人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。(パンドラの匣)

 銀天街に定年退職はない。先輩方は、あたりまえのように、死ぬまで働いている。風邪をこじらせ、二、三日、店を休む。そうなって初めて、店主が高齢だということを実感する。悲しいことではあるが、そのまま告別式の通知が組合事務員によって届けられることも。
 戦争でふるさとの家屋を焼かれ、すべてを失った。青春を奪われ、夢も希望もなく、生きるためにふるさとを離れなければならなかった。とにかく仕事を探さなければ。たどり着いた、ここ、コザ。
 親戚縁者、知り合いを頼りに、なんとか始めた商売。米軍払い下げのテントを張り、売れるものは何でも売った。米、野菜、服…。仕入れのため、自転車で1日に何度もコザと那覇を往復した。直接、農家にも買いに行った。
 戦後のどさくさで始めた商売。商売のノウハウなど、知る由もなかった。とにかく売れるものを仕入れ、何でも売った。そして何でも売れた。
 街は、米軍基地建設用道路沿いに自然発生的に生まれ、形成されていく。奇跡の街。最後の運命共同体。もともとコザの人は存在しない。ふるさとの違うよそ者たちが、それぞれのふるさとの心のまま、ふるさとの歌を口ずさみながら、みんなで力を合わせてコザの街を創った。
 あれから何年の時が過ぎたのだろう。
 平均年齢80歳。銀天街の看板娘たちは、21世紀になってもチャーガンバイである。合言葉は「百歳まで、やるさあ」。苦労したはずなのに、相手を気遣う優しいユーモアで、いつも周りを明るくしています。
(仲田健(なかだたかし)、沖縄市銀天街商店街振興組合青年部長)