コラム「南風」 哀愁のB級ホテル(3)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1972年前後のコザは復帰の混沌(こんとん)と同時にドルショック、コザ騒動、ベトナム戦争の長期化、揺れに揺れていた。戦火の激しい創業当時、客のほとんどが単身の米兵であったが、73年の事実上の米軍のベトナム撤退を機に戦争の緊張が一気に緩和し、夫婦や家族での移動が多くなり、米軍家族向け貸し住宅の空き家待ちの米兵家族が急増した。思い起こせばそのころがわがB級ホテルの黄金期であったのであろう。需要に供給が追い付かない民間貸し住宅事情は一朝一夕には好転せず、その代わり軍人家族のホテルでの宿泊は月単位の長期に及んだ。

 宿泊者の大半は古き良きアメリカの幸せな家族そのもので、奥さんがウチナーンチュという家族も少なくなく、そのいずれもが米国のもたらす富を享受していた。その中のひとり離島出身のA子さんは黒人軍曹の妻で子どもはいなかった。口減らしのためコザの街へ出てきて差別と貧困にあえぎながら職を転々とし、彼と知り合い、今の立場に収まったが、その過去については多くを語りたがらなかった。その反動からか今自分が市民権を得て暮らすアメリカという国がいかに偉大で、そして自分の結婚がいかに幸運であったか、いわゆる勝ち組である事を嫌みなほど雄弁に語った。そして中学生の私をダンナと一緒に時々食事やボーリングに連れて行ってくれ、巨大ステーキを目の前にしてアメリカという国の優位性をこんこんと聞かせた。
 やがてA子さん夫婦の2年の沖縄勤務は終わり、米本国への転勤となった。旅立ち前夜のサヨナラパーティーの席上で、相変わらずの米国礼賛の熱弁をふるっていたA子さんの表情が変わった。行きたくない。やっぱり沖縄が一番いい。そう言ってさめざめと泣いた。
 わがB級ホテルには、通り過ぎて行った人たちのさまざまな思いが詰まっている。
(宮城悟、デイゴホテル社長)