コラム「南風」 哀愁のB級ホテル=自立への道


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 1980年代中盤ごろからフェンスの向こう側は米軍家族住宅や大型建造物の公共工事が活況を呈し景気の良さを物語っていた。その中で基地内ホテルも客室の増殖を続けていたに違いない。コザ地域の民間ホテルへの供給は減り続け、米軍関係の宿泊稼働率が見る間に下降線を描いていく。思いやり予算という『国策』の名の下で国民の税金によってホテルを建てられわが商売を圧迫するというまさしく耐えがたき不条理。

 日米のオエライ方々よあなた方は当時よく言っていたではないか、米軍関係業者と米軍基地は良き隣人であり大切なビジネスパートナーだ。その関係は基地がある限り続くと。コザの住民ならば肌感覚で体現する基地被害に対する屈辱感や怒りのマグマを腹の中に封じ込め、復帰闘争のさなかにも常に親米側で協力してきたはずだ。生きていくために。その理不尽さはどの機関に訴えてみても取り合ってもらえず米軍依存型ホテルは徐々にその姿を消していくことになる。
 さてわがB級ホテルとて意地もプライドもある。いずれ米軍需要は枯渇する。私は無謀にも米軍との契約を断ち背水の陣でささやかな反撃に挑んだ。新しい顧客の開発。目玉として当時は画期的なスポーツ合宿の誘致に業界を巻き込み取り組んだ。先進地に学び合宿地としての環境づくりに精励し、脈ありとあらばどこへでも飛んで行き海邦国体で整備されたわが地域のインフラ面と気候的優位性を説く。これが僥倖(ぎょうこう)を生んだ。想像を超えた勢いで受注が発生しホテルの経営を大きく支え現在に至る。今や米軍依存度0%。このころが皮肉にも私の人生で一番熱く充実した時であった。
 しかし私は忘れない。わがホテルを含め幸運にも生き残ったホテルはわずか数件。この街の矛盾にも声を荒らげることもなく親米と言う立場で沈黙を守り、転廃業の波にのまれた多くの同業の仲間たちがいたことを。
(宮城悟、デイゴホテル社長)