コラム「南風」 まだ食べられねえなぁ


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 先日の訪問診療のことでした。玄関からのぞくと、廊下に男性が倒れているのが見えました。慢性疾患を患いながらも在宅で頑張っている80代の高齢男性です。

 「ど、どうしました!」と呼び掛けると、奥から「あ、先生! いらっしゃーい」と娘さんの明るい声が聞こえました。「なんかベッドから落ちたみたいなんだけど、どっか行こうとしていたみたい。でも、そこまではって行って止まってますね」
 声の明るさと言ってる内容とのギャップがすごすぎます。取りあえず玄関を上がって、オジイに声を掛けました。「大丈夫ですか?」「ここで力尽きた…」とオジイ。そう言いながらもニコニコしています。取りあえず大事はなさそうですね。床の上ではありますが、タオルケットをかぶっています。娘さんが掛けたのでしょう。
 「ベッドに戻りましょうか? 手を貸しますよ」「いや、いいよ。いつもと景色が違っていていいんだよ」
 時刻は夕方近く、傾きかけた太陽が庭木の向こうにちらちらと光っていました。
 「じゃ、ここで診察しましょうか?」と私は提案しました。「そうしてくれ。もう戻れないから」とオジイは陽気そうに了承しました。冒険を終えたばかりの少年の目をしています。よわいを重ねて、やがて死を迎えるように、その不可逆性こそが人生を豊かにしてくれます。それを実感するのは、時にすがすがしいものです。もちろん、痛めつけられることだって多いのだけれど。
 床に倒れているオジイの診察をしていると、ちょっと倒錯した気分になって私まで愉快な気持ちになりました。ネコがやってきてオジイを嗅いで、そして去って行きました。まだ食べられないことを確認したようです。癒やされますねぇ。

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(高山義浩、前県立中部病院感染症内科地域ケア科医師)