コラム「南風」 死に逝く人の「孤独」について


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 「幸福な死」というものはあるのでしょうか? まだ見えてこない課題の一つです。ただ、「多くの家族や友人に見守られながら息をひきとる」という漠然としたイメージは、医師としての経験を重ねるうちに完全に破壊されました。

 人は肉体的に、あるいは精神的に苦しんで死んでいきます。これは避けられない事実です。そして、私が担当してきた患者さんの多くが、いくつかの葛藤の末、その時を「なるべく静かに迎えたい」と考えるようになっていきました。
 実際、別れが来ることを自覚した患者さんは、この世から徐々に自分を切り離しながら孤独になり、その時に備えていきます。一気に全てを失うことは、あまりにつらすぎるのかもしれません。だから、患者さんは仕事のことを忘れ、友人のことを忘れ、ついには家族のことすらも直視しなくなることがあるようです。
 ある死を覚悟した高齢女性は、主治医である私に「子どもたちはいいよ、おかあちゃんがそばにいてくれるから」と言いました。苦しそうにしている彼女を気遣って、「ご家族を呼びましょうか」と声を掛けたときのことです。もちろん、80を過ぎた彼女の母親はいにしえの人となっています。しかし、彼女は「目を閉じれば、おかあちゃんが見える」と言って、ずっと目を閉じていました。それを聞いて私は、彼女が彼岸へと渡りはじめていることを理解したのです。彼女は病室に独りきりに見えましたが、しかし、そうではなかったのかもしれません。
 援助の手も差し伸べられないまま死を迎える人、いわゆる孤独死、そういう人がおこらぬように私たちは注意深くあるべきでしょう。しかし、「ひとりでそっと死にたい」、あるいは「死にゆく姿をさらしたくない」という患者さんの気持ちがあるとすれば、それもまた尊重していきたいものです。
(高山義浩、前県立中部病院感染症内科地域ケア科医師)