コラム「南風」 哀愁のB級ホテル=追憶、若夏国体


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 復帰の翌年1973年。復帰記念沖縄特別若夏国体が開催された。本国体とは違い人数も規模も縮小されたミニ国体と言えども、沖縄県になって初めての全国規模のスポーツイベントであった。

 わがB級ホテル創業者の父は県立農林学校に入学するが、戦火が激しく学校が長期の休校になると、陸軍大分少年飛行兵学校へ志願入隊した。幸いにも特攻へ出撃することもなく兵学校で終戦を迎え命をつないだ。失意の父は故郷沖縄にはすぐには帰らずに姉妹の疎開先の宮崎県高千穂町で農業を手伝いながら1年ほど身を寄せることとなる。その時に受けた温情がよほど身に染みたらしく、宮崎関係の事柄には協力を惜しまなかった。
 さて、若夏国体の沖縄市の受け入れ競技はサッカー。デイゴホテルの受け入れチームは宮崎県代表20人。出来過ぎだ。父は第二の故郷宮崎への大恩に報いるとばかりに大いに張り切り、試合そっちのけでチームを観光に引きずり回し、毎夜のごとく地元の仲間を集めて歓迎会を開き、揚げ句の果てには基地内の親しい米軍人宅でのホームパーティーに参加させた。今でいう国際交流だ。ほとんどが飛行機は初めてという宮崎代表のサッカー選手たちは地方の実直な青年そのもので、沖縄と本土の温度差と風景の違いに複雑な思いに駆られ、初めて接するアメリカ人とはメタボ食を堪能しながら不器用にも楽しく交流する。何よりもウチナーンチュのチムグクルは彼らの琴線を刺激し、素晴らしき出会いと友情を育んだ。
 その後父は80年に他界するが、宮崎との音信はいまだに続く。真っ正直で愚直な男が生んだ小さなホテルの小さな物語だが、同様の出来事はわがB級ホテルにはたくさんある。オーナーやスタッフの醸し出す個性がホテルに命を吹き込み、心揺さぶる出来事はホテルマンの明日への活力となる。
(宮城悟(みやぎさとる)、デイゴホテル社長)