コラム「南風」 哀愁のB級ホテル=母ちゃん


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 母親のことを母ちゃんと呼んでいた。職住が混在し一緒に仕事をするようになり、スタッフや客の手前「社長「会長」と職名で呼ぶようになったが二人きりでいる時も母ちゃんと呼ぶのが何とはなしに気恥ずかしく現在に至っている。

 母は創業時から苦楽を共にし急逝した夫の跡を継ぎ、私にバトンタッチするまで二十数年社長を務めたが、今あるデイゴホテルの礎を築いたのは間違いなくその在任中である。商才があるわけでもなく緻密な計画の下に事業を遂行するのでもない。ただひたむきに客の要望に応え満足させることに努力を惜しまない。客の喜ぶ姿や感謝の言葉に幸せを感じ、わずかな不満にも本能的に反応し心を砕く。だからこそ、米軍御用達ホテル時代は単身兵や米兵家族からは「ママサン」と慕われ悩みや沖縄での生活の相談役となり、常連客は田舎のおふくろやオバァに接するがごとく甘えてくる。
 母の日にはあちこちから花束が届きその人気の程を見せつける。経営面においてはどんぶり勘定甚だしく、詐欺的夜逃げ不払いに遭遇したのも少なくなく、火消しに苦労したが不思議なことに最後は収支のバランスが保たれた。意見の食い違いからスタッフの前で親子げんかが始まるのは日常茶飯事であったが、大抵は彼女の強引なホスピタリティー論に押し切られその軍門に下り、涙ながらに方針を飲んだ。このような紆余(うよ)曲折を経る中でわがB級ホテルのカラーであるデイゴイズムなるものが出来上がり、常連客の支持を得たのだと思う。
 80歳を超えた今。体よく会長と言う座に縛り付け実権を奪ったが、元来が働き蜂の彼女がおとなしくしているわけがなく、現場に口出しをして80代と50代の親子げんかの原因をつくっている。
 『もうそろそろ楽隠居しようよ母ちゃん』と小さくなった母の背中にささやく。
(宮城悟、デイゴホテル社長)