コラム「南風」 『小指の思い出』


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あなたが噛(か)んだ小指が痛い 昨日の夜の小指が痛い(「小指の思い出」伊東ゆかり)
 初めて聞いた十代の頃は余程強く噛まれたと思っていました。でもこれは興奮の余韻に浸っているだけ。実はちっとも痛くない。

 心が忘れたあのひとも
 膝が重さを覚えてる…
 雨々ふれふれもっとふれ
 私のいい人つれて来い
 (「雨の慕情」八代亜紀)
 膝が重さを覚えているというのは、かって膝枕をした男の頭の重さが体感記憶として残っている、と言えば身もふたもない。いとしい男を懐かしむ風情はこの際頭の重量は関係ないもの。
 唇寄せればなぜかしびれる 赤いグラスよ
 (「赤いグラス」アイ・ジョージ)
 飲む前からしびれるのは、条件反射のせいかと思ったのは理系の頭だったから。若い頃は野暮(やぼ)の骨頂でした。いとしき人の記憶は官能的体験も随伴します。
 さてこれらの体で覚えた記憶はエピソード記憶とも言い、人生の中に意味を持って刻まれるため長期間保持されます。でも楽しいことよりも嫌な体験の方が、今後同じ目に遭わないよう強く心に刻まれます。
 忘れてしまいたいことや どうしようもない
 寂しさに包まれたときに
 男は酒を飲むのでしょう (「酒と泪と男と女」河島英五)
 酒を飲んでも忘れられない嫌な記憶を強く押さえ込んでいると、必要な事も忘れてしまいます。いわゆる記憶喪失(解離性健忘)はまれですが、肝心なことが抜け落ちる部分的な記憶脱失は普通に起こります。
 忘れたくないのに忘れ、思い出したくないのに思い出す、記憶の仕組みは複雑です。大切なことや良い思い出は、書き留め何度も人に話すなどして、記憶の貯蔵を神経ネットワークだけでなく人的ネットワークにも広げましょう。
(長田清、精神科医)