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センバツ100年の歩み 夏の甲子園とは異なる独自色 名物「21世紀枠」、沖縄の宜野座は4強入りで“旋風”


センバツ100年の歩み 夏の甲子園とは異なる独自色 名物「21世紀枠」、沖縄の宜野座は4強入りで“旋風” 2001年4月、桐光学園を破り大喜びで応援席へ駆け出す宜野座ナイン=甲子園
この記事を書いた人 Avatar photo 共同通信社

 1924年に第1回が開催された選抜高校野球大会は今春、100年の節目を迎える。各都道府県の代表が集う夏の全国選手権大会とは異なり、選考委員会が出場校を選出する独自色を出している。「春は選抜から」という言葉とともに、歴史を紡いできた。

「21世紀枠」は大会名物 宜野座、4強で“旋風”起こす

取材に応じる宜野座元主将の安富勇人さん=2月、名護市

 選抜大会の名物とも言える「21世紀枠」は、2001年から採り入れられた。困難の克服、文武両道など戦力以外の特色を評価する出場枠だ。あと1歩で甲子園に届かないチームの目標として定着している。

 最初に同枠で甲子園の土を踏んだのは、安積(福島)と宜野座(沖縄)の初出場2校。安積は初戦敗退だったが、全国的に無名だった宜野座は桐光学園(神奈川)など強豪校を次々に撃破してベスト4。“宜野座旋風”を巻き起こした。

 当時の主将で、現在は名護で教員の安富勇人さん(40)は「チャンスをもらったことで、やればできると実感できた」と振り返る。前年秋の九州大会は8強。出場は諦めていて「21世紀枠」の候補に入ってもイメージが湧かなかったという。

 大会が始まると、約5千人(当時)の宜野座村の半数が応援に駆け付けたと言われるほどアルプス席は満員だった。憧れの場所に立てる喜びだけで戦い、「21世紀枠」で注目されるプレッシャーを見事にはねのけた。自信をつけたことで練習への姿勢が変わり、同年夏の全国選手権大会への出場も果たした。

 「21世紀枠」の最高成績は宜野座と09年の利府(宮城)の4強。初戦敗退が多く、苦戦が続く。同枠はことしから1校減って、07年以来となる2校になった。明治神宮大会優勝校の地区に与えられる「神宮大会枠」の1校と合わせて4は多いとの声があった。野球部を指導する安富さんは「(廃止の)声が上がっていることも承知の上で残してほしい。(人生が変わったことは)間違いない」と熱っぽく語った。


第1回は愛知で開催 2度の震災後も実施、希望の光に

 第1回大会は1924年に愛知・山本球場で開催された。出場校は8チームで、決勝は高松商(香川)が早実(東京)を下して優勝。25年の第2回大会からは前年に完成した甲子園球場(当時は甲子園大運動場)に会場を移した。

 太平洋戦争の影響を受け、42年から46年までは開催を見送ったが、47年に再開した。

 2度の震災後も開催され、日本列島を勇気づけてきた。95年1月に発生した阪神大震災では、開催地の兵庫県が大きな被害を受けた。2011年の東日本大震災は開幕12日前に発生。未曽有の災害に、ともに開催の可否が協議された。それぞれ「復興・勇気・希望」「がんばろう!日本」をスローガンに実施。被災地の球児が白球を追い、希望の光を届けた。

 20年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で、出場校が決まった後に中止が決定した。予定されていた大会の中止は史上初。日本高野連の八田英二会長(当時)は「何とかやりたい気持ちも持っているが、それができない苦しい決断を理解してほしい」と苦渋に満ちた表情で語った。この年は夏の甲子園大会も中止となった。

 選抜大会は「投高打低」の傾向が顕著だ。完全試合を達成したのは2人。1978年に前橋(群馬)の松本稔、94年に金沢(石川)の中野真博が偉業を成し遂げた。今夏に106回を迎える全国選手権大会ではまだ誰もマークしていない。

 2連覇は、第一神港商(兵庫)PL学園(大阪)大阪桐蔭の3校で3連覇はない。大阪桐蔭は2018年に春2連覇と春夏連覇を果たした。

 投打の中心として活躍し、現在はプロ野球中日でプレーする根尾昂は「春はチームが完成しきっていない中での試合になる。本当に分からない」と難しさを口にした。

 選抜大会の最も大きな特徴になっているのは01年に新設された「21世紀枠」だ。困難な環境の克服など戦力以外の要素を加味して選出する。春夏の甲子園大会に1度も出場したことがない学校が晴れ舞台の黒土を踏みしめた。

 開会式の入場行進曲も特色といえる。今春はシンガー・ソングライター、あいみょんさんの「愛の花」が、聖地に球春到来を告げる。

(共同通信)