本部町で生まれ育った謝花良掌さん(84)は謝花国民学校2年生の時に戦争に巻き込まれました。曽祖父を自宅に残したまま、祖父と母と一緒に収容所での生活を余儀なくされます。飢えやマラリアの流行など過酷な生活を生き延びました。「運が良かった」と振り返る謝花さんの話を那覇市立松島中学校の喜屋武葉那さん(15)と宮平陽菜さん(15)が聞きました。
■ ■ ■
〈謝花さんは本部町謝花(現本部町古島)という小さな集落で生まれ育ちました。1944年の10・10空襲を体験し、戦争を身近に感じました。当時は8歳でした〉
10・10空襲は那覇だけでなく北部、本部町でもありました。何十という飛行機が飛んでくるものだから、友軍の演習と思い、木に登って見ようとしました。煙がぼんぼんと上がって、燃えているのが分かりました。
下にいる母に「おっかあ、渡久地の方が燃えているよ」と言いました。そうすると、おじいさんに「こら、何してるか。降りてきなさい」と怒られました。頭巾をかぶせられて、屋敷内の防空壕に避難しました。
その日は何回も飛行機が飛んできて空襲を繰り返していました。本当に戦争が起こっているんだなと感じました。本部町の役場や瀬底島の学校、日本軍の船も全部破壊されました。
〈45年3月末、艦砲射撃が始まり、米軍の上陸が刻一刻と迫ります。謝花さんの家族は、防空壕での避難生活を送るようになります〉
敵の艦砲射撃が始まってから、日中は親戚3家族で本部富士の防空壕に入っていました。おじいさんが造って準備していたんですね。夜は謝花の屋敷に帰って、母が非常食に油みそを作っていました。
4月頃に防空壕から外に出て、本部富士に登り様子を眺めてみました。そこから4キロほど離れた嘉津宇につながる道です。四角い箱みたいなものが、ずーと走っているのが見えました。トラックかジープかよく分からなかったけど、米軍の車なのだと分かりました。
戦争が終わってから知ったのですが、その頃八重岳では日本兵と米兵の激しい戦闘が起きていて、たくさんの人が犠牲になっていました。私は戦いを見たことはありません。謝花の屋敷近くにも陣地壕が造られていましたが、実際には使われなかったです。
5月には、区長さんの命で今帰仁村諸志に移動しました。この時にはすでに米軍の管理下にあったのです。親戚の家に1週間くらい寝泊まりしました。
ここで初めて米兵を近くで見ました。アメリカ人の目は「ひーじゃーみー(ヤギの目)」と言われていて、夜は目が見えないなど悪いことばかり聞かされていました。人間じゃないんだと。でも実際に見るとそんなに怖い感じはしなかった。体が大きいと感じました。
※続きは3月11日付紙面をご覧ください。