<未来に伝える沖縄戦>疎開先で聞いた玉音放送 岸本瑞江さん(91)


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自宅で疎開体験と同級生の悲劇体験を語る岸本瑞江さん=5月、那覇市小禄

 岸本瑞江さん(91)=那覇市小禄=は県立第二高等女学校4年の時、家族と共に疎開船に乗りました。戦時下の情報統制の中、詳しい戦況を知ることのないままに沖縄を離れ、疎開先の軍需工場で玉音放送を聞き、終戦を知りました。「生き残ってしまった」。沖縄で命を落とした同級生への思いを抱え、今も千羽鶴を折り続けています。岸本さんの話を小禄中学校3年の町田恋菜さん(15)、同2年の吉岡直さん(14)が聞きました。

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 《岸本さんは1928年9月16日、恩納村で生まれました。4歳で養子となって現在の那覇市に出て、松山小学校に入学しました》

 

 義父の大脇巻衛は鹿児島県から梅干しや福神漬けなどの食料品を仕入れて小売業者に販売する卸業者をしていました。鳥取県米子市出身の義父はもともと、たばこの専売を行う鹿児島地方専売局那覇出張所の所長をしていました。沖縄に赴任後、いまの名護市を出身とする義母・千代と知り合いました。子どもがいなかったために私を養子にした時には、義父は70歳に近かった。義母は50代でした。戦後すぐに義父が亡くなるまで、私は養子であることを知りませんでした。今思えば、義父が高齢だったことが私と同級生の運命を分けました。戦争が始まると、多くの同級生の父親は徴兵され、同級生のほとんどが沖縄に残りました。義父は高齢のために徴兵を免れ、家族で疎開できました。

 

 《太平洋戦争が始まる前の41年4月、県立第二高等女学校に入学しました。この頃、日本の勝利を信じて疑いませんでした》

 

 二高女は現在の那覇市久茂地の自宅のすぐ近くにありました。校門から入ると、すぐ正面に奉安殿がありました。天皇皇后両陛下のお写真が入っていて、登校時にお辞儀をするのが日課でした。胸を躍らせて始まった学園生活でしたが、12月に戦争が始まると暮らしは徐々に変わっていきました。食料や衣類が配給制になり、破れた靴下を繕ってはき続けていました。「欲しがりません勝つまでは」が合い言葉になり、兵隊さんのために尽くすのが当たり前だという感覚でした。
 

 《3年になる頃、戦争の影響が濃くなってきました》

 3年生になると空気が一変しました。英語は「敵国の言葉だ」という理由で、授業そのものがなくなりました。英語が苦手だった私は無邪気に喜んでいましたが、先生も戦争に動員されて次々にいなくなりました。この頃から日本軍の陣地を造る作業に駆り出されることが多くなってきました。(現在の那覇空港にあった)小禄飛行場の拡張工事を手伝いました。今でも覚えているのは、4年生の1学期にあった事故です。
 

※続きは6月10日付紙面をご覧ください。