<未来に伝える沖縄戦>母と妹置き去り、鬼の心に 波照間信子さん(89)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
波照間信子さん(89)=19日、那覇市首里の首里東高校

 那覇市首里平良町で生まれた波照間(旧姓新里)信子さん(89)は1945年4月1日の米軍本島上陸後に戦火から逃れるため家族で南部へ避難します。途中、砲弾を受け動けなくなった母や幼い妹との別れを経験しました。波照間さんの話を首里東高校3年の菅原琳梨さん(17)と玉城杏莉さん(17)が聞きました。

■    ■    ■

 《波照間さんは、1930年11月14日に現在の那覇市首里平良町で生まれます。首里第三国民学校の5、6年生になる頃には、学校では竹槍の訓練や山への避難訓練などが始まりました》

 高学年になる頃に、経塚(現浦添市)に引越しました。両親が畑をしていたので手伝いを任され、学校と畑で半分ずつの時間を過ごしました。高学年になる頃には、勉強よりも戦争の訓練を多くしていた気がします。兵隊のために経塚の付近で壕を掘りました。それでも私は戦争がやってくるという自覚はあまりありませんでした。

 《1944年10月10日、沖縄をアメリカ軍の機動部隊が襲い、艦載機が軍事施設から住宅まで無差別に爆撃と機銃掃射を加えました。10・10空襲です》

 経塚の森から那覇の方面を見渡すと、やけどを負った人たちが避難してきました。この頃になると、いよいよ戦争が始まるのかと思いました。

 父が石部隊の防衛隊として召集されていたので、父に代わり嘉手納の飛行場(中飛行場)造りの手伝いにも行きました。

 知り合いの家に泊まりながら作業に従事しました。配給では、虫に食われた「いりむさー」の芋もありました。食べないと力が出ないので、必死に飲み込んだ覚えがあります。たまに帰宅する時には、大豆をお土産に持って帰りました。

 戦争の足音が近づいてきていましたが、日本が勝つと信じて疑わなかったです。あまり怖いという気持ちはありませんでした。

 《45年4月1日、沖縄本島中部の西海岸に米軍が上陸しました。日本軍は米軍上陸時の戦闘を避け、ほとんど反撃をしませんでした。米軍はこの日、大きな損害を受けないまま続々と沖縄の地を踏みました》

 空襲が激しくなり、私たち家族は家の近くに掘った壕に避難していました。米軍の上陸後だったと思いますが、石部隊に配属されている父がやってきて、私1人を自身の部隊がある沢岻の方に連れて行きました。

 白い布で覆われた部屋に通され、そこで部隊隊長(歩兵第64旅団団長)の有川主一少将に出会いました。有川さんは「娘が4人いる。その娘たちと年も近いのでお父さんと呼んでほしい」とおっしゃられました。その壕には1カ月もいなかったと思いますが、有川さんはその間、とても親切にしてくれました。おいしい食べ物をくれたり、水で顔を洗ったりしてくれました。

※続きは7月8日付紙面をご覧ください。