<未来に伝える沖縄戦>学徒動員、目前で友人失う 吉川初枝さん


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傷を負った戦争体験を語る吉川初枝さん=9月24日、那覇市泉崎の琉球新報本社

 那覇市泊出身の吉川初枝さん(92)=同市=は、私立昭和高等女学校の4年生だった17歳のころ、沖縄戦を経験しました。戦時中は看護要員として動員され、昭和高女は動員された17人のうち9人が犠牲となり、戦後、梯梧学徒と呼ばれるようになりました。戦時中、米軍の迫撃砲で当時14歳の弟・朝信さんを亡くしました。吉川さんの話を、浦添市立神森中学校2年の豊原悠太朗さん(14)と奥平芽衣さん(14)が聞きました。

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 《1944年10月10日の「10・10空襲」で、那覇市泊の自宅は焼失しました。当時40代の母・カメさんは独立混成第44旅団の炊事班、弟・朝信さんは独立混成第44旅団工兵隊として行動するようになりました。吉川さんも看護要員として動員され、米軍が沖縄本島に上陸する45年4月1日を迎えます》

 負傷した兵士を手当てするため、私たち梯梧隊の七班は、南風原村(当時)新川にあった第62師団野戦病院ナゲーラ壕に配置されました。4月1日に米軍が沖縄本島に上陸して以降、毎日というほど多くの負傷兵が運ばれてきました。

 4月29日のことです。私たちは昼の仕事が終わり、ナゲーラ壕の入り口で友人4~5人と輪になり、おしゃべりをしていました。「今日の仕事も終わったね」「4月29日は天皇陛下の誕生日だね」と立ち話をしていると、突然近くに爆弾が落ちました。爆弾の破片が目の前の友人の胸に刺さり、まるでホースから勢いよく水が飛び出るように、血が出ていました。

 爆弾は遠くに落ちるとヒューと風を切る音がします。ですが、近場に落ちると「ドン、バン」と一瞬の出来事です。あの時も、ドンと音がしたかと思うと、直後に破片が飛んできました。止血をしようとさらしをぐるぐる巻き、急いで処置室に連れて行きました。ほとんど即死の状態で、友人は目の前でそのまま息絶えてしまいました。

 《その後、近くに家族がいる者は、家族のもとへ帰ることが許可されます。当時、母・カメさんは現南城市玉城糸数のアブチラガマにいました》

 私は、家族のもとへ帰ることにしました。お米と金銭、「石部隊野戦病院学徒隊」と書かれた証明書を持たされました。証明書は、万が一家族に会えなかった場合、身分を証明して他の学徒隊へ合流できるためのものでした。私は首里高等女学校の子と2人でナゲーラ壕を出ました。彼女はアブチラガマの近くに住む子で、帰り道が分かると言いました。弾が激しく飛ぶ中を、私たちは死に物狂いで進みました。近道という畑道を通り、無事たどり着くことができました。道を知っていた彼女がいたからこそ私は生きています。ですが、彼女とはそれ以降会えていません。

※続きは10月14日付紙面をご覧ください。