<未来に伝える沖縄戦>学徒動員受け糸数壕へ 謝花澄枝さん(87)〈上〉


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謝花澄枝さん(右)の壮絶な戦争体験に耳を傾ける、知念双葉さん(中央)と永吉花蓮さん=9日、八重瀬町立東風平中学校

 八重瀬町東風平に住む謝花澄枝さん(87)は、沖縄師範学校女子部予科3年生の時、沖縄陸軍病院へ動員されました。戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる女子学徒たちは、南風原村(現南風原町)の同病院や玉城村糸数(現南城市)のアブチラガマに置かれた糸数分室などへ配置され、負傷兵の世話などに追われました。八重瀬町立東風平中学校2年の知念双葉さんと永吉花蓮さんが話を聞きました。

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 1942年、沖縄師範学校女子部に入学しました。入学した時期は食糧難で、真っ白なご飯はなく、芋ご飯でした。翌43年ごろにはますますひどくなり、ンスナバー(フダンソウ)の茎をご飯にまぜて食べていました。週に一度はうちに帰れたので、ご飯を食べるのを楽しみに帰りました。家から戻るときに、芋やおむすびを持ってきていました。
 楽しい学校生活でしたが、45年3月23日、具志頭村港川(現八重瀬町)から艦砲射撃が来ました。その晩、部長住宅の家の前に集められ、西岡一義女子部長に「これからお国のために一生懸命頑張るように」と言われ、南風原の陸軍病院に行くことになりました。今晩行けば、あしたあさってには帰れるんじゃないかと思っていましたが、攻撃はどんどんひどくなっていきました。

※続きは11月14日付紙面をご覧ください。