<未来に伝える沖縄戦>遺体の間に身を隠す 謝花澄枝さん(87)〈下〉


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学友を次々と失い、南部を逃げ惑った体験を語る謝花澄枝さん=9日、八重瀬町立東風平中学校

 《1945年5月25日の晩、沖縄陸軍病院糸数分室だったアブチラガマ(糸数壕)で撤退命令を受けた謝花澄枝さん(87)らひめゆり学徒は、摩文仁村伊原(現糸満市伊原)周辺の六つの壕に分散することになります》

 伊原第一外科壕に着いたころには爆撃も少なく、壕の中はいっぱいだったので、昼はサトウキビ畑にいました。爆撃が弱まると木陰に出て、激しくなるとまた壕の中に入り、晩には食糧を探しに行きました。
 6月17日の晩、水をくみに行くと、機銃掃射があったんです。驚いて壕に戻ると誰もいない。兵隊は皆斬り込みに行っていました。中で休んでいると、壕の近くに砲弾が落ちました。足元に大勢の人が死んでいて、人の塊の上を歩きました。
 翌18日、壕の中に集められ、「敵が近くまで来ているから、自分の命は自分で守るように」と解散命令が出されました。けがをしていた友人を連れて行きたかったのに、一度壕から出ると出る人が多く中には入れず、置き去りにしてしまいました。知念秀子さんと2人、山城の山の方へ逃げました。ソテツで囲まれた根元に隠れましたが、中学生の男の子に「早く下りた方がいい」と言われ、下りると海岸でした。

※続きは11月15日付紙面をご覧ください。