<未来に伝える沖縄戦>空襲受け学びや離れる 嘉陽田ヤエ子さん(86)〈上〉


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嘉陽田ヤエ子さん(右)から話を聞く仲村新夏さん(中央)と島袋凌さん=4日、北谷町栄口区公民館

 北谷町の嘉陽田ヤエ子さん(86)は沖縄戦当時、真和志村安里(現・那覇市安里)の沖縄師範学校女子部に通っていました。空襲が激しくなると、嘉陽田さんは実家の越来村(現・沖縄市)に戻りました。家族と共に北部地域を転々と避難し、恐怖と飢えに耐えて生き抜きました。北谷中学校1年生の島袋凌さん(13)と仲村新夏さん(13)が、北谷町栄口区公民館で嘉陽田さんの戦争体験を聞きました。

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 《1944年に沖縄師範学校女子部に入りました》

 既に学校生活は戦時色に染まっていました。教室の一部は兵隊が使い、私たちは頻繁に各地の陣地構築にかり出されました。せっかく勉強したくて入学したのに、勉強に集中できる状況ではありませんでした。友達と「私たち入っただけだね」と笑い合っていました。
 入学した年の10月10日、「10・10空襲」と呼ばれる大規模な空襲がありました。那覇の9割以上が焼けました。私はこの日の朝も壕堀り作業を始めようと準備していました。突然、遠くの方で白い煙が立ち上ったのを覚えています。戦闘機が見えました。まさか敵とは思わず、初めは友軍が来てくれたのだと思いましたが、米軍のグラマン機だったので近くの壕に逃げ込みました。
 大量の焼夷弾が落とされました。燃え盛る那覇の街を見て、本当に戦争がやって来てしまったと怖くなりました。一面が火の海になっていました。

※続きは2月27日付紙面をご覧ください。