読谷村波平に住む宮里平信さん(84)は米軍が読谷村の海岸に上陸した1945年4月1日、自宅から1キロほど離れたイングェーガマに家族と一緒に避難していました。ガマでの様子や米軍に見つかってガマから出るときの気持ちについて、当時14歳だった宮里さんが記憶をたどりました。読谷村立読谷中学校2年の伊良波文梨さん(14)、同1年の大嶺あさかさん(13)、山内瑛理さん(13)が話を聞きました(学年は取材当時)。
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《宮里さんたちはイングェーガマに避難した後、食べ物を取るために波平の自宅に戻ります。そこで艦砲射撃に遭いながらも、命からがら逃げ延びて再びガマへ避難しました》
ガマに逃げ込んだのは、艦砲射撃がすでに始まっていた3月30日だったと思います。チビチリガマも知っていましたが、父親がイングェーガマの方が安全だからと言って、そのガマへ避難しました。イングェーガマは私たちの畑の近くにあったのでよく知っていました。中は広々としていて、奥に進むと横穴が広がっていました。水が流れている場所もありました。
私は、父の平助や姉の輝、祖母の4人でガマに避難しました。母と妹2人はヤンバルに疎開していました。ガマには、同じ波平区から避難していた家族を含め20人ぐらいいたと思います。
31日から米軍の艦砲射撃がより激しくなりました。夜は艦砲射撃が収まるので、食べ物を取るために夜に自宅に戻りました。2度目に戻ったとき、あちこちで火が燃え、辺りは焼け野原となっていたのです。自宅もばらばらになっていました。夜にもかかわらず、激しい艦砲射撃が始まっていたのです。父が「大丈夫か」と呼び掛け、何も取らずに祖母を残したガマへ3人で戻ったのです。
※続きは4月9日付紙面をご覧ください。