本部町大浜に住む田中英治さん(80)は、戦時中9歳で、両親と幼い弟3人と共に、米軍の砲撃や空襲を逃れて本部町伊野波や並里の壕を転々としました。一瞬の判断が生死を分けた田中さんの戦争体験を本部中学校3年の古堅楓さん(14)と伊野波盛琉さん(14)が聞きました。
《1945年1月ごろ、本部町でも徐々に米軍の空襲があり、田中さんは家族と共に本部国民学校(現・本部町役場)の裏手の山、リージバルに構えた掘っ立て小屋に移りました》
当時、長男は兵隊としてパプアニューギニアに、次男は陸軍士官学校、三男と長女は宮崎に疎開しました。四男の私は2歳の弟をおぶり、6歳と5歳の弟二人の手を引いて山を登ったんですよ。リージバルの壕はいい場所で米軍から見つからない場所でした。でも、「ウーカタカタカタ」と低空飛行して機銃掃射する音はよく聞こえました。こわくて心臓が撃ち抜かれるかと思いました。
小屋には、本土出身の初年兵が来ることもあった。母親のことを話して涙を流す初年兵に僕の母が「うやうむやー(親思いな子)だ」と言ってこっそりイモを渡していました。反対に、父が畑から小屋までイモを運んでいるときに日本兵にイモを奪われて殴られたこともあった。日本兵にもいろんな人がいました。
※続きは4月23日付紙面をご覧ください。