<未来に伝える沖縄戦>米兵恐れ女児を装う 宜保栄治郎さん(82)〈上〉


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本島北部の沖縄戦について宜保栄治郎さん(左)の話を聞く県立名護高校の大城萌衣香さん(中央)と玉城大樹さん=1日、名護市の同校

 名護市屋部出身の宜保栄治郎さん(82)=那覇市在住=は戦時中11歳でした。家族で現名護市旭川仲上原などに隠れ、女性を暴行する米兵におびえていました。宇土部隊(独立混成第44旅団第2歩兵隊)に配属された兄の栄さん(当時18歳)は戦死しました。過酷な体験を名護高校2年の大城萌衣香さん、玉城大樹さんが聞きました。

 《1941年に太平洋戦争が始まりました。42年になると、栄治郎さんがいた屋部国民学校でも行進などの軍事訓練をしました》

 小学3年だった42年、いとこの兄さんが馬を使って田畑を耕したり、サトウキビを運んだりしてもうけていました。私も将来は馬車引きになりたいと思いましたが、家庭訪問で先生に「そんな小さい夢ではいけません」と言われました。その晩、両親に「軍人になれ」と言われ、陸軍大将になろうと決めました。
 軍国少年が教えられたのは(1)将来は軍人になれ(2)日本は神の国であり、神である天皇に絶対服従せよ(3)日本は負けたことがないので絶対に負けない(4)敵が押し寄せると神風が吹き、敵を壊滅させる(5)捕虜になるのは恥だから玉砕せよ-ということでした。

 《44年10月10日に米軍の「10・10空襲」があり、那覇市をはじめ、各地の飛行場などを爆撃しました》

 私たちは屋部から仲上原の分家に逃げました。屋部へ帰るとき、隣の家の儀部喜仁兄さんに会いました。儀部さんは「今度兵隊に行きます」とにこやかに言いました。25、26年生まれの人は現地召集といって沖縄で軍隊に入りました。それまでは軍隊に入ると熊本で訓練を受けました。現地召集された人たちは屋部では約40人いましたが、一人も帰ってきませんでした。

※続きは6月11日付紙面をご覧ください。