<未来に伝える沖縄戦>女性襲う米兵におびえ 宜保栄治郎さん(82)〈下〉


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「戦争はこんなにひどいと子孫に伝えるのが私たちの義務だ」と話す宜保栄治郎さん=1日、名護市の名護高

 《宜保栄治郎さん(82)=当時11歳=家族は現名護市親川に収容されていましたが、周囲に「日本が勝ったら米軍の収容所にいた者は刑務所に入れられる」と言われ、同市旭川仲上原に戻りました》

 仲上原に帰ったら、周辺の米軍が女性を暴行しに来ました。私たちは朝、弁当を作ると山に隠れます。1カ月ぐらい逃げ回りました。ある日、近所のおじさんが、ほかの家族と一緒にやぶに隠してくれました。私たちがゆっくりしていると、近くのあぜ道から米兵が20人ぐらい出てきました。おじさんはびっくりしてスペイン語で「降参します」と叫びました。自分に注意を向けないと米兵が家族の隠れている方に行くからです。おじさんは米兵に囲まれ、隣村へ道案内をさせられました。そしたら、そこの女性たちが暴行されたそうです。

 《避難するには限界があると感じ、MP(軍警察)が守ってくれる羽地の収容所に行きました》

 羽地の呉我ではアメリカ屋という家に収容されました。アメリカから帰ってきた金持ちの家です。200人ぐらい住んでいました。1カ月したら配給が足りなくて食べるものがない。家族7人を養うため、屋部に芋を堀りに行きました。20キロぐらいの芋を持って帰り、芋煮にする。1日置きに掘りに行きました。

 7月の初め、父の仲栄(当時39歳)が帰ってきました。夕方、友達が「宜保のお父さんだ」と言うから外に飛び出してみると、父が歩いてくる。びっくりしました。父は冷静で、早い時期からこの戦争は負けると考えていました。1月に防衛隊として首里へ行き、6月下旬に捕虜になりました。屋部からは30人ぐらい防衛隊に行きましたが、半分は死んでしまいました。

※続きは6月12日付紙面をご覧ください。