<未来に伝える沖縄戦>壕の入り口、土で覆われ 宮城眞仁さん(84)〈上〉


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戦中、戦後すぐの宜野湾地域での宮城眞仁さん(右)の体験に聞き入る嘉数中学校3年の(左から)新垣成依さんと嘉陽彩夏さん=4日、宜野湾市の宜野湾区公民館

 宜野湾市宜野湾に暮らす宮城眞仁さん(84)は沖縄戦当時、宜野湾国民学校に通う13歳でした。戦火が近付きだすと、授業は屋外で行われるようになり、日本軍の中飛行場(現・米軍嘉手納基地)の建設作業や住んでいた宜野湾村(当時)宜野湾区周辺の壕掘りにも従事させられたりしました。米軍上陸後には昼間を壕で過ごし、夜には自宅に戻るなど、家族8人で逃げ惑う生活を送りました。幼少期を過ごした家があった場所は米軍普天間飛行場として米軍に接収されたままです。宜野湾市立嘉数中学校3年の新垣成依さん(14)と嘉陽彩夏さん(14)が宜野湾区公民館で宮城さんの戦争体験を聞きました。

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 〈沖縄戦が迫った1944年、通っていた宜野湾国民学校は日本軍の兵隊が使い始めていました〉

 今は普天間飛行場になっていますが、幼少のころから宜野湾村宜野湾に住んでいました。小学校6年生のころ、私は身長が1メートル17センチしかなく、背丈と変わらないほどのシャベルを背負って嘉手納の飛行場まで今はない鉄道で通いました。嘉手納に着くと日本の兵隊さんと一緒になってシャベルを持ち土を掘るなどして飛行場を造るのを手伝いました。その当時から学校にはすでに日本軍の兵隊さんがいて、教室の机や腰掛けは片付けられていました。授業も外で行われるようになり、画板を持たされ、机代わりにしたのを覚えています。週に1回は嘉手納で飛行場造り、また週に1回は宜野湾での壕掘りをさせられました。

 〈1944年の10・10空襲を皮切りに米軍の攻撃は激しさを増し、学校は休校となります。45年の3月ごろまでに家族8人での避難生活が始まりました〉

 いつごろだったか、1人の兵隊さんに「戦争が近づいているので家に帰って家族を守りなさい」と言われたことを覚えています。そのあとに学校が休校となり、壕と家を行ったり来たりする生活が始まりました。入った壕は「ウフガー」という泉の近くにありました。とても広く、たくさんの人がいたのを覚えています。昼間は「ドーン」という艦砲射撃や空襲の音を聞きながら壕の中で過ごしました。
※続きは7月9日付紙面をご覧ください。