<未来に伝える沖縄戦>粗末な防空壕を転々 仲嶺盛治さん(82)〈上〉


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自身の沖縄戦体験を語る仲嶺盛治さん(右)=今帰仁村

 今帰仁村仲宗根に住む仲嶺盛治さん(82)が沖縄戦を経験したのは12歳の頃でした。戦前、仲嶺さんは両親やきょうだいと一緒に平和な日々を過ごしていました。しかし那覇市が大規模な空襲に見舞われた1944年10月10日以降、仲嶺さんの暮らしの中にも戦争の足音が近づいてきました。米軍機の襲来に備えて防空壕へ駆け込む回数が増え、空襲が激しくなると乙羽岳に避難しました。母親やきょうだいと山の中を逃げ続けた仲嶺さんの体験を、今帰仁中学校2年の嶺井政寿さん(14)と渡久地叶佳さん(14)が聞きました。

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 私の父親は戦前、今帰仁村仲宗根で散髪屋をやっていて、母親は縫い物などをやりながら私たちのきょうだいを育てていました。私は小学校に通っていて、とても平和な日々だったことを覚えています。ただ、41年に日本とアメリカが戦争を始めて、(44年の)10・10空襲の1年ほど前には私の父親も戦争に行くことになりました。私の父親は体が小さくて、兵隊としての評価は一番弱い方でした。父親は戦争に行く前、「自分のような人まで兵隊に行かなければならない状態になっているのなら、日本はもう駄目だろう」と言っていました。父親は県外や朝鮮に配属された後に沖縄に戻ってきて、そこで戦死しました。

 《10・10空襲からしばらくすると、仲嶺さんの住む集落にも米軍機が襲ってくるようになりました。米軍機の攻撃から逃げるため、仲嶺さんたちは何度も防空壕へと避難しました》

 那覇を大規模な空襲が襲った後から、私の周りにも「戦争が来るかもしれない」と言う雰囲気が広がってきました。那覇の空襲はいきなりやって来て、たくさんの人が亡くなったと聞かされました。私も「これはいったい何なのか」と驚きました。しばらくは空襲がなかったのですが、45年になると今帰仁でも空襲が激しくなりました。当時はほとんどの家の庭に防空壕があって、空襲が来たらそこに逃げました。ただ、庭にトンネルを掘ったような簡単なつくりだったので、それでは持たなくなりました。

※続きは11月12日付紙面をご覧ください。