<未来に伝える沖縄戦>農学校が軍司令部に 山城修さん(88)〈上〉


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高校生に戦争体験を語る山城修さん(左)=名護市の名護商工高校

 伊江村出身で現在は名護市に住む山城修(やましろ・おさむ)さん(88)は沖縄戦当時、石垣島で親戚の自宅から農学校に通う17歳でした。1945年3月ごろ、山城さんは日本軍の鉄血勤皇隊に入ることになり、通信隊の暗号班として島内の司令部に情報を伝達する役割を担いました。戦後は八重山でまん延したマラリアを患い、一時は死を覚悟するほど苦しみました。名護商工高校2年生の真栄田愛莉さん(17)、宮里海音さん(16)の2人が山城さんの戦争体験に耳を傾けました。
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 《伊江村で生まれ育った山城さんは、進学を希望していました。師範学校を受験して不合格になりましたが、父の助言もあって伯父が住む石垣島で八重山農学校に通い始めました。しかし戦争が激しくなると学校が日本軍の司令部として使われることになりました》

 伯父は八重山で一番大きな薬屋をしていました。42年に農学校に入ったものの、ほとんど勉強できず、毎日のように飛行場造りの作業だけをやっていました。43年になると学校を軍に明け渡すことになりました。兵隊が我が物顔で教室も全部使いました。私たちは製糖工場のあばら屋に勉強の場所を設けました。教室もない学校に行くのは切ないものでした。

※続きは11月26日付紙面をご覧ください。