<未来に伝える沖縄戦>会えないまま兄が他界 野原清子さん(80)〈下〉


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「(戦争は)人と人との殺し合い。とってもいけないと思ったよ」と語る野原清子さん=10月30日、南風原町立中央公民館

 〈八重瀬町玻名城に避難した当時7歳の野原清子さん。子どもを身ごもった体で兄を背負っていた母のツルさんが姿を見せず、不安な夜を過ごしました〉

 母が弟たちと共に避難場所に着いたのは翌朝5時ごろのことでした。「兄さんはどうしたの?」と聞いても母は答えず、ただ泣いていました。

 〈気持ちが落ち着いた頃、母は兄を丘に置いてきたことを親戚に伝えました〉

 休もうと思い丘に兄を寝かすと「アンマー、私は長らくは生きられないから、水をください」と言ったそうです。本当はけが人に水を飲ませてはいけないけれどあまりにも兄がせがむので、持っていた弁当箱に水をくんであげたみたい。そしたら「アンマー、今までありがとうね。苦労をかけてすまなかったね」と言葉を残して静かに亡くなったと聞きました。母は形見として持っていた父愛用のマントを兄に掛けて「戦争が終わって生きていたら迎えに来るからね」と言ってその場を後にしたそうです。

※続きは12月11日付紙面をご覧ください。