大宜味村上原の瑞慶山良光さん(87)は、本島北部の少年たちで組織された遊撃隊(護郷隊)として戦争を体験しました。護郷隊は、スパイや謀略家を養成する陸軍中野学校出身者の指揮の下にゲリラ部隊として編成されました。米軍の陣地や戦車へ突撃する斬り込み隊としての出陣令状を受け取り「もう生まれてこなかったと思えばいい」と覚悟したことや、米軍が投げた手りゅう弾の破片が頬に刺さり今も傷痕が残っていることなどを大宜味中1年の上地希空さん(13)と平良日菜多さん(13)に語りました。
1945年3月1日、大宜味青年学校1年。16歳だった。学校ではなく役場の前に集合したら、軍曹が「これから私の指揮に従ってもらう。今から出発する」と話したが、どこに行くか何をするかも聞かされなかった。集まった親たちが「どこに行くんですか」と聞いても「言えない」と。秘密のままに出発した。
恩納村熱田原の国民学校に着いて教官から「今日から第2護郷隊として任務に就き、われわれの軍事教育を受ける」と訓示があってね。球部隊第4遊撃隊として銃や剣、軍服を一式渡された。教育訓練だよ。ほふく前進を肘にマメができるまで、皮がむけて感覚がなくなるまで。「痛くなくなるまで訓練しろ」と言われて、痛くて前に進めない人もいた。そんな人は、木でできた鉄砲でお尻を突かれたり、腹やほっぺたを殴られたりしていた。
〈3月下旬には沖縄本島の空襲が始まり、恩納岳の本陣地に向かうことになりました。その時、指揮官から令状を受け取ります〉
緑の字で書かれた「斬り込み」の出陣令状だった。これをもらった人は3月28日で作業を終え「29、30日は安息日にしなさい。おいしい物を食べなさい」と言われ、特別に牛缶をもらってね。430人いた中で斬り込み隊に選ばれたのは60人。今のテロを思い出したらいいさ。
30センチくらいの高さの木の箱に黄色い粒や導火線を入れて、それを背負って火を付けたら燃えてバンと戦車もひっくり返るわけ。人間も一緒に。死刑宣告さあね。遺髪箱を渡されて、髪の毛を切って、爪を切って、うちから持ってきた私服を整頓して入れた。
※続きは1月28日付紙面をご覧ください。