<未来に伝える沖縄戦>命令絶対、選択肢なく 山城清輝さん〈上〉


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 沖縄市に住む山城清輝さん(93)は1944年、20歳の頃に熊本陸軍予備士官学校に入り、軍の幹部候補生として厳しい訓練を受けました。故郷の状況は何一つ知らされないまま終戦を迎え、宮崎県で1年教師をした後、沖縄に戻り、現沖縄市のインヌミヤードゥイの収容所で母親と再会します。「今の社会情勢は戦前と似てきている」と警鐘を鳴らす山城さんの話をコザ中2年(取材当時)の屋良駿さんと仲間千花さんが聞きました。

「今の社会情勢は1937~38年ごろに似ていて大変不安です」と話す山城清輝さん(左)と、山城さんの話に聞き入るコザ中の屋良駿さん(中央)と仲間千花さん=3月15日、沖縄市上地

 〈山城さんは1931年、満州事変があった年に小学校へ入学した。戦争は激しくなり、学校教育や普段の生活にも影響していきました〉

 当時使っていた教科書には「天皇陛下万歳」という言葉があったり、「キグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ。」など、戦争では最後まで戦うという考えを教えられました。

 (国民に戦争協力を強制する)国家総動員法ができた1938年は中学生でした。各家庭に食べ物を何キロ出しなさいという「供出命令」が旧北谷村から来ていました。芋も野菜もおいしい部分は供出して、自分たちはまずくて小さい残った部分を食べるのが当たり前の生活でした。食べ盛りだったけど、不平不満の気持ちはありませんでした。私たちは立派な兵隊になり、天皇陛下のために死ぬのが日本男児だと思っていたからです。

 私は現嘉手納町の県立農林学校に行った後、青年師範学校で教師の資格を取り、すぐに熊本予備士官学校という陸軍の幹部を養成する学校に入りました。

 戦争中で一番つらかったことは学校で行われた軍事演習です。「教練」という教科があって、兵隊と同じ訓練をするんです。学校には本物の機関銃や小銃を保管している兵器庫があり、「配属将校」という兵隊もいて、銃の撃ち方など戦い方を習いました。卒業試験で教練検定があり、不合格になったら兵隊になっても階級が上がらないので、一番力を入れました。人を殺す練習も、自分が死ぬというのも名誉だと思っていました。

※続きは5月27日付紙面をご覧ください。