<未来に伝える沖縄戦>母 銃撃死亡も「涙出ず」 具志堅貞子さん


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 具志堅貞子さん(86)は那覇の上泉に生まれ、4歳で与那原に引っ越します。沖縄戦が始まって必死に逃げ惑う中、妹とはぐれ、目の前で母親を亡くしました。「涙が出なかった。戦争は人の感受性を殺す。あるのは憎しみだけだ」。与那原から南風原、糸満市摩文仁まで逃げた後、米軍に捕まり宜野湾市の野嵩へ連れられます。当時14歳だった具志堅さんの戦争体験を、与那原中学校3年生の小橋川杏莉さん(15)、平仲凜さん(14)が聞きました。

戦争は聞かないと分からないが、体験しないと分からないこともあると語る具志堅貞子さん=6月20日、与那原町の軽便与那原駅舎

 《具志堅さんは1930年11月、那覇市で生まれました。4歳で大里村の6区(現在の与那原町中島区)に移り住みました》

 私が4歳の時、母親が与那原で雑貨店を開くことが決まったので、那覇から与那原へ移り住みました。父親は仕事のために大阪へ出ていましたから、母と2歳下の妹の3人暮らしでした。

 与那原はとても都会でした。海にはたくさんの山原船、陸には軽便鉄道(沖縄県営鉄道)が走っていて、交通と商売でとても栄えていました。

 軽便鉄道に乗るのは、当時の私の一番の楽しみでした。親戚が那覇に住んでいたので、親戚の家に一泊することもとてもうれしかったです。まだ平和な時の、幸せな記憶です。

 《戦争が近づいていた、14歳-。与那原国民学校時代の思い出は、防空壕を掘って、竹やり攻撃の訓練をしたことです》

 学校では、勉強をしている時間はありませんでした。私たち生徒は一日おきに、日本軍のための防空壕を掘らなきゃいけなかったのです。

 生徒も教師も、戦争は日本が勝つんだと当たり前に信じていました。今思えば、竹やり攻撃の訓練なんて何の役に立つのやら。弾は飛んでくるんですよ。どうやって、誰に竹やりを刺すのか-。

 《1945年3月23日、与那原国民学校卒業式当日の朝、空襲を告げるサイレンが鳴りました》

 午前7時半ごろだったと思います。急に空襲警報が鳴りました。その日は与那原国民学校の卒業式の日でしたが、すぐにリュックサックを背負い、母と妹と一緒に大見武にある防空壕を目指して走りました。地獄の始まりです。

 4月中旬にはいよいよ与那原も焼け野原になりました。中城湾に米兵が来ているのが見えたので、ここも危ないと分かりました。

 そのころの出来事です。大見武の防空壕の前に、15人ぐらいの日本兵が並んでいました。日の丸が付いたはちまきをしていて、頬は真っ赤。色白で、二十歳そこらの年でした。彼らは1本ずつ、上官にもらったタバコをじっくり味わっていました。町は焼けているのに、何をしているんだろうって。すごく不思議だったんです。

※続きは6月28日付紙面をご覧ください。