<未来に伝える沖縄戦>3度のガス弾に苦しむ 金城ハツさん


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 金城ハツさん(旧姓・照屋)(79)=那覇市=は6歳の時、出身地である糸満市賀数(旧兼城村)で沖縄戦を体験しました。金城さんは戦場で母親に置き去りにされ、3度もガス弾の攻撃に遭いました。金城さんの体験を那覇市立寄宮中学校の津波璃子さん、屋我龍緯さんが聞きました。

沖縄戦の最中に家族が離散したことなどを話す金城ハツさん=那覇市の寄宮中

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 《金城さんは1938年8月、現在の糸満市賀数で生まれました。11人家族で豊かな生活を送っていました》

 私たち家族は兼城村(現在の糸満市)賀数に住んでいました。父・秀一、母・カメ、祖母・ウサと姉4人、兄1人、妹と弟1人の11人家族でした。親戚の叔母とその息子も一緒に住んでいました。

 父は那覇で薬品や反物などを販売する商社のような仕事で、母は農業をしていました。当時にしては珍しく、室内にトイレがあったり、蓄音機があったりと非常に裕福な生活でした。

 《幸せな暮らしが沖縄戦で一変します。45年6月以降、本島南部も日米両軍が混在する戦場に巻き込まれます》

 偵察機が飛んでいるのが見え、父が屋敷内に造った仮の防空壕に家族で逃げました。すると家に爆弾が落ちて全て燃えてなくなってしまいました。その後、父はいつの間にか防衛隊に行ってしまいました。

 ある日、防空壕を出て芋畑で女性2人と母が芋を取っていると、機銃で撃たれ、女性2人は亡くなり、母も銃弾で太ももにけがをしました。母は「この防空壕は危険」と判断し、ほかの壕へ避難しました。

 米兵が近くに陣地を置くようになってからは、壕の外に出ることはなく、持ってきた押し麦をわき水でふやかし、黒砂糖を入れて食べていました。

 けがをした日本兵2人が壕に入ってくることがありました。当時6カ月ぐらいの一番下の弟・秀信がいたので「連れて行かないとここで殺す」と言われ、次女で、姉のフミが連れて防空壕を出て行きました。戦争が終わるまで2人と会うことはありませんでした。

※続きは12月13日付紙面をご覧ください。