<未来に伝える沖縄戦>避難生活 弱視の身で体験 山田親幸さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 沖縄県視覚障害者福祉協会の会長を務める山田親幸さん(83)=西原町=は戦争の足音が迫る中で幼少期を過ごし、5年生になる年に沖縄戦が始まりました。米軍の攻撃から逃れるため大宜味村喜如嘉の山中に両親、祖母、きょうだいら11人と共に避難します。山の中で体験した沖縄戦の様子や当時の思いを那覇市立上山中学校の宇垣真暉さん(14)と仲里聡真さん(14)が聞きました。

大宜味村喜如嘉の谷底での沖縄戦体験を語る山田親幸さん=1月18日、那覇市松尾の沖縄視覚障害者福祉センター

 《山田さんは1934年、名護町(現名護市)幸喜で生まれました。両親は教員で、10人きょうだいの5番目でした。41年、名護国民学校東江分校に入学しました》

 私は生まれつき弱視でした。黒板の字も一番前に座っても見えないし、新聞の見出しは見えたけど中の文章は読めないほどの視力でした。
 尋常小学校という名前は、私が入学する年に「国民学校」と変わりました。国語の教科書も変わり「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」だった教科書の最初のページは、私が入学した年から「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」となりました。国民学校という名にふさわしく、戦争に備えた教育を始めました。
 国語や算数の時間は減らされ、代わりに体操の時間が週2時間から週6時間になりました。体を鍛えて兵隊になるためです。敵の姿もよく見えない私は大変肩身の狭い思いをしました。

 《45年3月、4年生の修了式の日、沖縄本島を米軍の艦船が囲み、艦砲射撃を始めました。一時、金武村)で暮らした後、大宜味村喜如嘉に移り住んでいた山田さんは地域の住民と一緒に山奥へ避難しました》

 3月23日は4年生の修了式をするはずでした。しかしその日、沖縄本島を取り囲んだ軍艦によって艦砲射撃が始まりました。みんな逃げ回り、修了式に出られず、同級生たちもどこに逃げたか当時は分かりませんでした。
 私たち家族は国民学校校長だった父の転勤で大宜味村の喜如嘉に移り住んでいました。遠い所から聞こえていた大砲の音も近くで聞こえてきたので、学校が管理していた林の中にある炭焼き窯に避難しました。

 《上陸した米軍が大宜味村にも迫ってきました。山田さんの家族は、山の中に造った小屋で避難生活を続けます》

 米兵がどんどん近づいてきたので4月12日ごろに谷底に移り住みました。水が流れている所より1メートルほど上の部分を水平に削って造った壕の中に竹の葉で屋根を作り、竹の少し太い部分を床にした小屋でした。
 山の上に昼間は米軍がいて、夜には帰るというサイクルでしたので、昼間は大声を出さずに過ごしていました。私の所は6畳の広さに家族9人が寝ていました。狭くて、あおむけで寝ることはできません。1歳の妹・和子と母は別の小屋を順番に回って寝かせてもらっていました。
 小屋の中からも米軍の艦砲射撃の音が聞こえていました。遠くの方からパーランクーのような音が複数聞こえ、それから約5秒後に地面に砲弾が落ちる「ドシン」という振動が続きました。南部の方とは違い、そういう音が落ち着いて聞けたのがやんばるでの戦争でした。

  ■  ■  ■

 《戦争が始まると住居に加え、着る物や食べ物にも変化がありました》

 服については身なりが悪いと気にする人はいないので、時にはパンツ1枚で過ごしました。服にしらみが大発生しましたが、目が悪い私でも黒地のパンツにいる白いしらみは見つけることができ、自分で退治することができました。
 食事は、これも食べられるのかと思う物まで食べ尽くしました。ツワブキの葉を食べておなかを壊したこともあります。毒のあるソテツの実を毒抜きをして食べていました。
 沖縄戦が始まる前、村人たちは毒抜きしたソテツを用意していましたが、転勤族だった私たちは畑も田んぼもなく準備ができませんでした。周囲の人たちに頼んでソテツを譲ってもらい、暇だった私たち子どもが毒抜き作業をしていました。時間をかけて毒を抜き、小さく刻んで濃いみそと一緒に食べる。決しておいしくはなかったです。
 沖縄戦が始まってすぐのころは14歳の次男・親次と2キロほど離れた川にカニやエビを捕りに行っていました。目が悪い私は外に出るときには家族が必ず一緒でした。低空飛行で米軍の軽飛行機がやってきて、慌ててワラビがたくさん生えている所に飛び込んだこともありました。しかし、食料がなく栄養不足になってくると外に出る体力も気力もなくなり、いつしか行かなくなりました。

  ■  ■  ■

 《過酷な環境の中で、今でも鮮明に覚えている出来事があります》

 大雨の時、川からごうごうとすごい音がしました。大きな声を出しても米軍に気付かれないほどです。だから大雨の時には家族の歌会が開かれました。最初は軍歌を歌い、学校で学んだ歌も歌いました。子どもだった私は、うとうとしていつの間にか寝ている-という生活が唯一の楽しみでした。
 一番嫌なことは子守でした。日中、両親やいとこは米やソテツを譲ってもらうため外出していました。そのときは7歳の妹・文子が和子を、2歳になるいとこの子を私がおんぶしました。空腹のため泣く子に竹の若芽の柔らかい根元をかませるなどしたが、なかなか泣きやまない。子どもと一緒に泣くこともありました。米軍がいる山の上に聞こえるのではないかと気が気でなりませんでした。
 外出している家族が敵の捕虜になっていないか、小銃で撃たれていないかなどを考え、毎日不安でした。夕方になり米軍が山から下りたころ、戻ってきた家族の声でほっとして泣き出すこともありました。子守は本当につらい仕事でした。

 《山中での避難生活が長引き、深刻な食料不足になりました》

 6月上旬ごろ食料が底をつき、食料泥棒をしようかどうしようかと家族全員で集まって話し合いました。年上順に意見を述べていくが「泥棒してまで生きようと思わない」という結論になりました。不思議なことにその直後、周りが食料のお裾分けをしてくれて食いつないでいけました。この会議は2回ありました。

 《4カ月の避難生活に終止符を打つ日が来ました》

 7月13日に米軍が「48時間以内に谷底から出るように」と通告を出してきました。その時も家族会議をしました。父は「校長の立場上、捕虜にはなれないからここに残る。みんなは山を下りなさい」と話しました。私の誕生日の15日に父を谷底に残し、集落内に下りました。しかし父も連れてこないといけないということで翌日には親戚が谷底に戻り連れてきました。こうして山田家と喜如嘉住民の避難生活は終わりました。

 《戦争を生き抜いた山田さんは自身の経験を踏まえ戦争は反対だと話します》

 戦争というのは命も奪うが障がい者も生む。特に障がい者は弱いですから、戦争の犠牲になることが多い。戦争によって障がいを負う人もいるし、亡くなる人もいる。全然戦争で得することはない。命も、財産も文化財も環境も奪われる。戦争につながることは今でも反対です。

※続きは3月14日付紙面をご覧ください。