<未来に伝える沖縄戦>壕の中で母絶命、涙出ず 孤児院へ父が迎えに 冨名腰静子さん


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 浦添村(現浦添市)当山で生まれ育った冨名腰(旧姓石原)静子さん(83)は両親と3人の妹たちと暮らしていました。戦争が近づいてくると、浦添国民学校に通っていた静子さんの生活はだんだんと変わっていきました。家の近くにあったガマ(洞窟)は、近所の人と協力して避難用の防空壕として造りました。冨名腰さんの体験を浦添市立浦西中学校3年の新垣百花さん(14)と豊見山尚杜さん(14)が聞きました。

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沖縄戦の体験を語る冨名腰静子さん=浦添市当山

 《1944年8月末、浦添国民学校は宮崎県へ疎開する児童を募っていました。友達と一緒に疎開したかった静子さんは、疎開に反対している両親や祖母には内緒で荷物を詰めました》

 当時、私は浦添国民学校の4年生でした。両親や祖母は「絶対行ってはだめ」と疎開に反対していましたが、仲良しの友達と離れ離れになるなんて嫌でした。夜、家族が寝静まった頃にこっそり荷物を詰めたんです。結局見つかってしまい、疎開できずに当山に残ることになりました。

 それから約1カ月後の10月10日、米軍による空襲がありました。丘の上から那覇の方角を見ると、街が赤く燃えていました。空襲の後、日本軍が私の住む当山にやってきました。私たちが一生懸命造った防空壕は軍の野戦病院として使われることになりました。私たちは避難する場所を取られてしまったのです。

 《空襲後、日本軍は地上戦に備えて続々と沖縄へやってきました。大きな家に住んでいた静子さんの祖父の家に兵隊が同居するようになりました》

 防空壕だけでなく、民家も軍のために使われるようになりました。私の祖父の家は村の中でも大きい家だったので、一番座に8人の兵隊が住むようになりました。彼らのご飯は近くにあった炊事場で作られました。飯ごうの中身は、お米の上にらっきょうが入っているだけでした。

 1945年初めの空襲で自宅が焼けてしまってからは、私たちも祖父の家近くの防空壕に住むようになりました。少ない食事の兵隊たちをかわいそうに思った母のカマダは、彼らに豆腐や野菜炒めなどを分け与えていました。もらった兵隊は他の兵隊に見つからないように、ヤギ小屋で食べていました。「ありがとう」と涙を流す兵隊もいました。

 兵隊との生活は約半年続き、妹のようにかわいがってくれました。米軍が近づいてきて、兵隊たちが祖父の家を離れる時、九州出身のアラキという20代半ばの兵隊が私に時計を手渡しました。「お守りとして持っておいて」と言われましたが、今はもうどこにあるか分かりません。

 日本軍が家から出て行く前日、兵隊は自分の手帳や米軍に知られてはいけない物を燃やしていきました。

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 《1945年4月1日、米軍が読谷から沖縄本島へ上陸し、那覇を目指します。米軍から逃げるため、静子さん一家と祖父と祖母は経塚の方へ逃げました》

 米軍が(宜野湾の)嘉数から迫っているということを聞き、祖父の家の近くにあった防空壕へ逃げ込みました。防空壕の中には日本軍の兵隊もいました。兵隊は「戦車が通るから子どもを泣かすなよ」と忠告しました。そして「声を出したら殺すよ」と言って、銃剣を私の首に突き付けたのです。私はぶるぶる震えながら、米軍が通り過ぎるのを待ちました。

 米軍の戦車は当山の石畳辺りで日本軍の攻撃に遭いました。しばらくして見に行くと、ひっくり返った戦車の中から日本兵たちが食糧や物資を取り出していました。

 祖父は「ここにいてはいけない」と考え、攻撃を避けて経塚の方を目指しました。経塚へ向かっている最中にも、負傷した多くの兵隊を見ました。「水をくれ」とせがむ兵隊を助けることもできず、「ごめんなさい」と何度も頭を下げました。

 《経塚にある防空壕を目指し、経塚橋を通っている時、米軍の戦闘機に攻撃されました。なんとか防空壕にたどり着きましたが、その数日後、当山に戻るため防空壕から出たところで、再び米軍機の攻撃に遭います》

 当山から仲間を経由して経塚橋を通っている時、米軍のグラマン戦闘機がパラパラと機関銃を撃ちながら、私たちの真上を通り過ぎました。私たちは橋の下に隠れましたが、戦闘機は再びこちらに戻ってきました。攻撃から逃げ惑い、やっとの思いで経塚の上毛近くにあった防空壕に避難しました。

 避難してから2、3日後、祖父が「死ぬなら自分の家で死のう」と決断し、当山に戻ることになりました。防空壕から出て間もなく、米軍の戦闘機から攻撃を受けました。祖父と、祖父がおんぶしていたいとこが機関銃に撃たれ、死んでしまいました。祖母も背中を撃たれましたが、何とか防空壕に戻ることができました。背中を負傷した祖母が「火が入っているからどうにかして」と言うので、背中をさすってあげました。

 その翌日、米軍が防空壕の前まで来て「出てきなさい」と命じました。壕の中にいた人は誰も出ようとしなかったので、手りゅう弾が投げ込まれ、死者とけが人が出ました。母は手りゅう弾によって死にました。母が死んだことは理解していましたが、その時は涙も出ませんでした。

 しまいには催涙ガスが投げ込まれ、苦しくて息ができませんでした。私と次女のツル子はあまりの苦しさに耐えられず、外に出てしまい、私たちの後を追って、壕に隠れていた他の人たちも続々と出てしまい、一緒に米軍に捕まりました。

※続きは4月11日付紙面をご覧ください。